「作品1」
下の写真は岡山市立福浜小学校の中庭にある、人見絹枝像である。



この像は私が福浜小学校に通っていた平成5年、福浜小学校の100周年記念に建てられたものである。人見絹枝は岡山県岡山市御津郡福浜村福成に生まれた。この像は人見絹枝が力強く走っている姿である。
私はこの像から女性も、やれば出来る・・・そんな風なことを感じる。




「作品2」
 下の写真は岡山市立浦安図書館にある、親子の像である。




この像は親子のコミュニケーションを表していると思う。しかし、この像は裸像なのだ。私は親子の像が裸像である必要がないと思う。
人間の生まれたままの姿を創り出すことにより、人間の暖かさを表現したとも考えられる。だからといって、裸像にしなくてもいいと思う。




「作品3」
 この写真も岡山市立福浜小学校にあるものである。これは、彫刻といってよいのか分からないが・・・。



これは私が福浜小学校に入学した当時からある。私の考えだが、このモニュメントは、何でもすぐ吸収し、元気である小学生が上に向かって伸びて行く姿を表していると思う。その周りにある羽のようなものは、両親であったり、友達であったりするのではないか。周りのものが、小学生を支えているのではないか。


「感想」
   私は今まで気にして彫刻を見たことが全くなかった。しかし、
発展科目、生命で彫刻の授業を受けて、岡山市内にもたくさんの
彫刻があうということが分かった。そして、その多くが裸像であった。
私は裸像を見ていい気持ちはしない。像を創る人は何を思い、どんな
思いを込めて裸像を作るのか分からない。彫刻の授業の中で、心無い人によっていたずらされた彫刻を見た。世間の人が裸像を彫刻として
見ているのではなく、裸の像として見ているのだと思った。
これから先も裸像を見ることがあると思う。そのたびに私は、
裸像の意味を考えるのだと思う。
今回、彫刻の授業を受けて、色んなことを考えることが出来たので
よかったと思う。