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作品番号:NDS98S-E2405

2008年7月30日

◆1998年1年E組24番の課題

分類1 分類2 分類3 市町村
人物 不明 不明 不明 鞆町
設置場所 設置者 タイトル 作者 設置年
神社前 不明 親鸞聖人御像 不明 不明
「親鸞聖人御像」野外彫刻イメージ 題:「親鸞聖人御像」
場所:神社前
この像は、古くから町の人々に知られていてとても有名である。私は、この像の名前を見て親鸞と浄土真宗について調べることにした。法然の説いた他力本願の教えをさらに進めていったのが、弟子の親鸞である。法然が配流されたとき、親鸞も越後(新潟県)に流され、その後許されて常陸(茨城県)稲田に移り、約20年ここにとどまった。
この間、戒律をやぶって肉食妻帯して僧でも俗人でもある立場で修行するかたわら、東国の武士や農民に教えを説き、承久の乱(1221年)前後に浄土真宗(一向宗とも言う)と言う新しい宗派を開いた。
親鸞の考え方は{歎異しょう(弟子の唯円がまとめた親鸞の語録)}に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とあるように、悪人正機説に代表されている。彼という「悪人」とは、自分の悪深く無力なことを自覚し、阿弥陀仏にすがる心をいだいた人をいい、そういう人間を救うこいこそ阿弥陀仏の本願であるから、信心さえすれば往生できるのだ、と親鸞は説いた。
親鸞の教えはとくに武士や農民の間に広まり、次の室町時代には一向一揆を起こすほどの力をもった。なお、親鸞には「教行信証」という著者がのこされている。

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