• ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室

第1回 教室に立つということ

2025年12月18日

ChatGPT Image 2025年12月18日 12_03_42.png

若い教師だった私が、最初にぶつかった壁

教室に立つということは、思っていた以上に、孤独な仕事だった。

1983年、私はカトリック系の中高一貫女子校に赴任した。期待と緊張を胸に、教室の前に立った日のことは、今でもはっきりと覚えている。黒板、机、整然と並ぶ生徒たち。その空間は、確かに「学校」だったが、そこにいる私は、まだ教師になりきれていなかった。

若かった私は、「正しいことを教えれば伝わる」「誠実に向き合えば理解される」と、どこかで信じていた。しかし、現実はそう単純ではなかった。高校1年生の担任となり、生徒指導の一環として、頭髪や爪、スカート丈をチェックする役割も担うことになった。生徒にとって私は、「教科を教える先生」である以前に、「注意する大人」だったのだろう。反発は強く、教室には見えない壁があった。

こちらが一生懸命話せば話すほど、距離は縮まらない。むしろ、言葉は空回りし、生徒の表情は硬くなっていった。「なぜ伝わらないのか」「自分は何を間違えているのか」。答えの出ない問いを抱えたまま、教壇に立ち続ける日々だった。

今振り返れば、私は「教師とはこうあるべきだ」という像に、必死にしがみついていたのかもしれない。指導とは何か、教育とは何かを、自分なりに理解したつもりで、それを一方的に差し出していた。しかし、生徒にとっては、それは「自分たちの現実」とはどこかずれたものだったのだろう。

そんな行き詰まりの中で、私はあることを始めた。学級通信を書こうと思ったのである。特別な理由があったわけではない。ただ、このままでは何も変わらない、何か手がかりが欲しい、そんな切実な思いからだった。

1983年7月13日、最初の学級通信を出した。タイトルは「ぼうぼうどり」。今思えば、少し風変わりな名前だが、そのときの私には、羽毛を逆立てながらも必死に生きている鳥の姿が、自分自身と重なって見えたのかもしれない。

正直に言えば、反応はほとんどなかった。後になって、ゴミ箱に捨てられているのを見つけたこともある。心が折れなかったと言えば嘘になる。それでも、書くことだけはやめなかった。授業のこと、新聞で読んだ出来事、社会の中で感じた違和感、自分なりの考えを、淡々と綴った。

不思議なことに、すぐには変化は起きなかったが、ある時から、教室の空気が少しずつ変わり始めた。直接感想を言われることはなくても、目が合うようになり、何気ない一言を交わせるようになった。「読ませよう」とするのをやめ、「読んでくれるまで待とう」と思えた頃だった。

この経験から、私は大切なことを学んだ。教育とは、相手を動かす技術ではなく、時間をかけて関係を育てる営みなのだということを。言葉は、投げれば届くものではない。置いておくことで、いつか拾われることもある。

まだこの頃の私は、「性教育」や「人権教育」といった言葉を、自分の実践と結びつけて考えてはいなかった。ただ、生徒一人ひとりが、どう生きているのか、何を感じているのかを知りたいと思っていただけである。しかし、その問いこそが、後に私を性教育へ、そして生命科学教育へと導いていくことになる。

教室に立つということは、教えること以上に、問い続けることなのかもしれない。
その問いは、今も私の中で、終わることなく続いている。

  • 投稿者 akiyama : 09:24

最近の記事

おわりに

2025年12月18日

no image
問いはこれからも続く 全9回にわたる回想録を書き終えたいま、私の中に残っているのは、達成感よりも、静かな確認のような感覚です。 ――自分は、問いから逃げずに歩いてきただろうか。 その問いに対して、「少なくとも背を向け続けてはいなかった」とは言える気がしています。 教育者として、何を残せたのか。 この問いに、明確な答えはありません。 知識や制度、肩書きは、時間とともに更新され、忘れられていきます。 …続きを見る
no image
教育者として、何を残せたのか 2016年11月、私は1983年から勤務してきたカトリック系中高一貫女子校を退職した。 その翌月、長く学園を導いてこられた理事長、シスター渡辺和子が逝去された。 一つの時代が、静かに幕を閉じた。 そう感じた。 シスター渡辺の著書『置かれた場所で咲きなさい』は、多くの人に読まれた。その言葉に救われた人も少なくないだろう。だが、私はこの言葉を、単なる励ましとしてではなく、…続きを見る
no image
性教育からSSHへ、一本の線でつながった実践 生命科学コースやSSHの話をすると、しばしばこう言われる。 「ずいぶん先進的な取り組みですね」 しかし、私自身の感覚では、それは「新しいことを始めた」というよりも、「ここまで来てしまった」という表現の方が近い。 性教育、エイズ学習、翻訳という授業、授業「生命」――。 振り返れば、私の実践は常に、「生徒が自分の生き方を考えるための材料をどう用意するか」と…続きを見る
no image
リーダーシップが育つ場として 「今の時代に、女子校は必要なのでしょうか」 1990年代半ば以降、学校関係者の間で、何度となく耳にした問いである。少子化が進み、共学化や校名変更、コース制導入といった改革が次々に行われる中で、女子校は「時代遅れの存在」と見なされることも少なくなかった。 実際、岡山県内の私立高校24校のうち、女子校は2校のみとなった。全国的に見ても、女子校はもはや少数派である。男女共同…続きを見る
no image
答えを教えない授業の試み 「その授業では、何を教えるのですか」 授業「生命」を立ち上げたとき、何度もそう聞かれた。 そのたびに、私は少し言葉に詰まった。なぜなら、「これを教える」と一言で言える内容ではなかったからである。 1990年代、日本社会は大きな転換期にあった。リプロダクティブ・ヘルス/ライツが国際的に議論され、女性の生き方や人権をめぐる考え方が、ゆっくりと、しかし確実に変わり始めていた。学…続きを見る
no image
高校生と一緒に、性を語れる場をつくった日々 「授業」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、教室で教師が前に立ち、知識を説明する光景だろう。 しかし、私が最も強く「これは教育だった」と実感している時間の一つは、教科書も黒板も使わず、生徒と机を囲んで行った翻訳作業の中にある。 1990年代初め、私は担任していた生徒たちと一緒に、エイズに関する英語の書籍を翻訳するという取り組みを行った。大学受験を控えた…続きを見る

このページの先頭へ