• ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室
  • ぼうぼうどりの生物教室

IMG_1287_1980.jpg

ます、スピノザの自然権を理解するために『神学・政治論』の第16章の2節から5節をまとめてみます。

第16章 2節
自然権とは「各個物の力の及ぶ範囲」である。

スピノザはまず、「自然の権利」とは何かを定義します。ここでいう自然権とは、道徳的に正しい権利や、人間社会の法律上の権利ではありません。自然の中に存在するすべての個物が、自分の本性に従って存在し、活動する力そのものを意味します。
たとえば、魚が水中を泳ぎ、大きな魚が小さな魚を食べることは、自然の秩序の中では「悪」ではありません。それは魚の本性に従った活動です。同じように、あらゆる個物は、自分の力の及ぶ限り、自分の存在を維持しようとします。したがって、スピノザにとって自然権とは、「そのものが実際に持っている力の範囲」に等しいものです。

ここで重要なのは、人間だけが特別扱いされていないことです。理性的な人間も、愚かな人間も、錯乱した人間も、動物も、それぞれ自分の本性に従って行動している限り、自然権のもとにあります。つまり、自然状態においては、「理性的だから権利がある」「愚かだから権利がない」という区別は成立しません。

第16章 3節
自然状態では、理性ではなく欲望が個人の権利を決める。

次にスピノザは、人間の自然権をさらに踏み込んで説明します。人間は誰もが、最初から理性に従って生きられるわけではありません。人間は無知の状態で生まれ、教育や経験を通じて、ようやく理性的な生活を学んでいきます。その間、人間は欲望や衝動によって生きています。
したがって、自然状態における個人の権利は、理性によって決まるのではなく、欲望と力によって決まります。この段階では、人は自分に有益だと思うものを、力ずくでも、欺きによってでも、懇願によってでも、あらゆる手段で求めることができます。また、自分の欲望を妨げる相手を敵と見なすこともできます。
ここでスピノザは、自然状態にはまだ「罪」は存在しないと考えます。罪とは、法があるところで初めて成立するものだからです。法以前の状態では、人間は自然の支配のもとにあり、自分の本性に従って行動しているにすぎません。

ここで重要なのは、この部分の核心は、自然状態において、人間は理性ではなく、欲望と力によって自己保存を図る存在であるということです。

第16章 4節
自然の秩序は人間の理性や道徳に合わせてできているわけではない。

この節では、スピノザの自然観がさらに明確になります。人間は、憎しみ、怒り、欺き、敵意などを「悪」と見なします。しかし、それはあくまで人間の理性や人間の利益から見た判断です。自然全体の秩序から見れば、それらも自然の中で起こる出来事の一部です。自然は、人間の理性に従って動いているわけではありません。自然全体は、人間の利益や人間の保存だけを目的としているわけでもありません。人間は自然全体の一部分にすぎず、自然には人間の理性では測りきれない無数の法則があります。
したがって、私たちが「悪い」「愚かだ」「ひどい」と感じるものも、自然全体の仕組みから見れば、必ずしも悪ではありません。それは人間の立場から部分的に見た評価にすぎないのです。ここでのスピノザの主張は、かなり徹底しています。つまり、自然は人間のために作られた道徳的秩序ではないということです。
この考え方は、『エチカ』の神即自然の思想とも深くつながります。

ここで重要なのは、神あるいは自然は、人間の善悪判断に従って世界を動かしているのではなく、必然的な法則によって存在し、作用しているという見方です。

第16章 5節
だから人間は、自然権を共同の権利へ移す必要がある。

議論は政治論へ移ります。自然状態では、人は自分の欲望に従って自由に行動できます。しかし、その状態では誰も安全に暮らすことができません。人間は恐怖から解放されたい、安全に生きたいと望みます。しかし、各人が好き勝手に行動し、怒りや憎しみに従って生きている限り、安全な生活は実現しません。
また、人間は互いに助け合わなければ、貧しく、不安定で、理性を育てることもできません。だからこそ、人間にとっては、理性の指図に従って生きるほうが有益になります。そこで必要になるのが、契約です。各人が自然状態でもっていた「あらゆることに対する権利」を、個人の力や衝動に任せるのではなく、共同の力、共同の意志へと移す必要があります。ここから国家や共同体の成立が導かれます。
この節の核心は、個人の自然権を、共同の権利へと組み替えることによって、安全で理性的な生活が可能になるという点です。ただし、スピノザは、人間が完全に利他的な存在だから契約するとは考えていません。人間は、自分にとってより大きな善が得られると期待するか、より大きな悪を避けたいと思うから、自分の行動を制限します。

ここで重要なのは、国家の成立は、道徳的理想からではなく、自己保存の合理的判断から生まれるということです。

第16章2節から5節までの流れを整理すると、次のようになります。
①自然権とは、各個物の力の及ぶ範囲である。
②人間も自然の一部であり、自然状態では理性ではなく欲望に従って行動する。
③自然全体は、人間の道徳や理性のために作られているわけではない。
④しかし、そのままでは人間は安全に暮らせない。
⑤だから人間は、自然権を共同の権利へ移し、国家を形成する。

この箇所でスピノザは、自然権から国家成立へ至る論理を組み立てています。

  • 投稿者 akiyama : 09:41
『有尾類研究所という思想』観察から制度へ、そして自由へ
新年度を迎え、これまで文部科学省のSSH(スーパーサイエンスハイスクール)事業において、支援をいただきながら開発してきた教育プログラムの構築過程を、一冊の本にまとめようと思い立ちました。 今年で70歳になります。世間では「老害」と揶揄されることもある年齢かもしれませんが、来年3月で教育現場を去る私にとって、これは自身の歩みの集大成だと(いささか手前勝手ながら)考えています。 もっとも、引き受けて…続きを見る
「高度経済成長の熱気」と共に育ち、成熟社会への転換点で社会へ出た世代
1956年に生まれ、1979年に大学を卒業した私は、「高度経済成長の熱気」とともに育ち、成熟社会への転換点で社会に出た世代である。1956年は、フランクルの『夜と霧』という「意味への意志」を問う名著が日本に紹介された年でもある。激動の25年を経て、「変わっていく時代に何を信じればよいのか」「教育は何のためにあるのか」、そして「これから残された人生をどのように生きるのか」という問いに向き合わざるを…続きを見る
no image
映画アニメ『ひゃくえむ』は2025年公開されたドラマで、100m走に取り組む選手の生きざまとして、その「才能」「努力」そして「何のために生きるのか」という根源的な問いが扱われていました。 物語の主人公は、生まれつき足が速く、100m走で常に1位を走り続けてきたトガシ。彼にとって「速さ」はアイデンティティそのものであり、周囲を見下す唯一の根拠でした。しかし、理論派で執念深い小宮という男との出会い、そ…続きを見る
人間にとって、希望を失うことの意味
V・E・フランクルの『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)のp132より 当時私がいた棟で最年長だった人が私に話してくれた。・・・ 彼は、奇妙な夢を見たというのです。「2月の中頃、夢の中で、私に話しかける声が聞こえて、なにか願いごとをいってみろ、知りたいことを聞いてみろ、ていうんだ。答えてやれる、未来を予言できる、ていうんだ。そこで、私は聞いたんだ。私にとっていつ戦争が終わるんだって。わかるかい…続きを見る
なぜ「研究所」なのか。ハブ型オープンラボ教育プログラム。
2006年、清心女子高等学校がスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けたとき、私は一つの問いを抱いていた。それは、「学校の中に、探究が日常になる文化をどう根づかせるか」という問いである。単に研究発表会で成果を出すことでも、進学実績を伸ばすことでもない。生徒が自ら問いを立て、仮説を考え、観察し、記録し、議論し、また問い直す。その循環が学校の呼吸のように自然に行われる空間を、どう作るかであ…続きを見る
A good life is the accumulation of days in which one's power to exist and act is enhanced.
Personhood is an intrinsic and inviolable value that each individual possesses. Every human being must be treated as an end in themselves, and never merely as a means. One must not measure one's life…続きを見る
科学技術人材育成におけるSSH事業の変遷と秋山繁治氏の教育モデル
以下は、友人が「秋山繁治の教育実践について」ネット上でAIに質問した結果です。 インターネット上には、生物学や教育に関する論文、助成金事業の報告書、雑誌原稿などが公開されているため、それらのデータを収集し、これまでの科学教育の取り組みを整理・要約したものだと理解しています。今後の科学教育の改革に、少しでも役立てていただければと考え、提供させていただきました。 今年70歳を迎え、現在は現役教員とし…続きを見る
「ダラムサラ」とは何か
ダラムサラは、インド北部ヒマーチャル・プラデーシュ州に位置する山岳都市で、1959年以降、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府が拠点を置いている場所です。亡命したチベット人にとって、ここは「政治の都」であると同時に、「精神の避難所」でもあります。 ① 1959年に何が起きたのか 1950年代に入ると、中華人民共和国は「平和解放」を名目としてチベットへ軍事侵攻を行い、1951年にはいわゆる「十七か…続きを見る
アニメ・キングダムに登場する「羌瘣」という存在が投げかける教育論
『キングダム』に登場する羌瘣(きょうかい)は、単なる強い剣士ではありません。彼女は、教育とは何を育て、何を切り捨ててきたのかを象徴する存在として読むことができます。 羌瘣の出自である蚩尤(しゆう:伝説の暗殺者一族の称号)の文化は、「個体最強主義」を極限まで純化した社会です。そこでは、同世代の子ども同士を本気で殺し合わせ、生き残った一人だけが次代を継ぐ仕組みが取られています。感情は排除され、弱さは否…続きを見る
「蚩尤(しゆう)」という極端に歪んだ部族の文化
漫画『キングダム』(ヤングジャンプコミックス)を原作とするアニメ第23話「世語り」では、「蚩尤(しゆう)」と呼ばれる暗殺民族の存在が描かれます。 蚩尤とは、山奥に隔絶して暮らし、暗殺を生業とする一族で、国家や法に属さず、「技」と「血筋」だけを価値基準とする一族です。 その一族の老婆が、盗賊に襲われた場面で語る「剣とは元来人を斬るものにあらず。太古の世、神を祭る神器として生まれしものなり」という言葉…続きを見る
トリカブトは「悪」であると簡単に決めていいのか
トリカブト(鳥兜)は、キンポウゲ科トリカブト属の多年草で、日本の山地の林縁、沢沿い、湿った草地に分布してます。美しい花を咲かせる一方、植物界でも最強クラスの毒性をもつことで知られています。 名前の由来は、花の形が、昔の武将がかぶった「鳥兜(とりかぶと)」に似ていることからです。草丈は50~150cmほどで、葉は手のひら状に深く裂け、花は紫~青紫(種により白や黄も)、上側の大きな萼片があることが特…続きを見る
晩年の教育者として、有尾類の研究に向き合う
若い頃の教育者は、①制度を良くしようとする、②成果を出そうとする、③組織の中で影響力を持とうとするという方向に引き寄せられます。 しかし、晩年の教育者は、制度を回す人ではなく、制度の限界を知っている人の立場になります。 ①制度は万能ではない ②正しさは人を救うとは限らない ③成果は意味を保証しないということを体験として知っています。 有尾類――イモリやサンショウウオの研究は、決して効率のよい研究…続きを見る
「鉄の檻」から人は出られるのか
3.「鉄の檻」から人は出られるのか ウェーバーは、楽観的な脱出路をほとんど示しません。彼が見ていた未来は、官僚制の肥大・専門分化の加速・価値の多神教(価値が統合されない世界)でした。 しかし、彼は一つだけ希望の火種を残します。 4.それでも可能な「抵抗のかたち」がある ① 「価値に殉じる覚悟」を引き受ける個人 ウェーバーは、「神々の闘争の中で、どの神に仕えるかを選べ」と言います。つまり、すべてを…続きを見る
マックス・ウェーバーの「鉄の檻」の中に住むのは誰か
マックス・ウェーバーの言う「鉄の檻(stahlhartes Gehäuse)」とは、合理化が極限まで進んだ近代社会が、人間の生を目的合理性・制度・規則・効率で包囲し、逃げ場のない構造になってしまうことを指します。では、その檻の中に「住む」のは誰なのか、そして人はどうなっていくのか――この問いを段階的に考えてみます。 1.「鉄の檻」に住むのは誰か ① まず住むのは「近代人すべて」 ウェーバー自身が…続きを見る
1

このページの先頭へ