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【映画『急に具合が悪くなる』のあらすじ】
パリ郊外の介護施設「自由の庭」の施設長マリー。彼女は、入居者を人間らしくケアしたいという理想を抱きつつも、人手不足やスタッフの無理解に悩む日々を送っていました。マリーは、コミュニケーション・ケア技法「ユマニチュード(Humanitude)」を介護施設に取り入れようとしていました。そんな彼女が出会ったのは、日本人演出家、森崎真理でした。真理が演出するのは、自閉スペクトラム症の孫を持つ俳優の一人芝居。その舞台に勇気をもらったマリー=ルーは、「マリー」という同じ名前の響きに導かれるように、真理との交流を深めていきます。そんな真理は、ステージⅣのがん患者でした。ある日、真理の病状は急激に悪化してしまいます。限られた時間の中で二人の絆は劇的に深まり、互いの魂を通わせ合う緊密な関係へと変化していくのです。
【私のメモ】
久しぶりに映画を観ました。普段は杖をつかないと歩けないため外出が億劫になりがちで、毎日を研究室か自分の部屋で過ごすことが多いのですが、ふと思い立って出かけることにしたのです。地域のコミュニティバスに乗れば30分ほどで六本木ヒルズのTOHOシネマズに行けるため、身体への負担は少なく済みます。逆に言えば、私にはそれしか選択肢がありませんでした。特に観たい作品があったわけでもなく、ネットの上映スケジュールの中から偶然選んだのが『急に具合が悪くなった』という映画でした。
作品の内容を調べることなく、まったく先入観を持たないまま上映が始まりました。最初は「認知症の介護施設の話なんだな」という前提が分かった程度です。冒頭、施設長のマリーの話に出てくる「ユマニチュード」という言葉の意味も、その時はまったく理解できず、ぼんやりと「人間性を大切にする療法なのだろう」と想像していました。
しかし映画を観進めるうちに、この作品は「健康な人がまともであり、病気の人はそこから外れた存在である」という前提そのものを問い直しているのだと感じるようになりました。認知症ケアの場面で印象的なのは、「認知症の人を正常な状態へ戻そう」とするのではなく、その人が生きている世界にこちらが入っていく姿勢です。つまり、ケアとは矯正ではなく、「関係をつくる営み」として描かれていたのです。「正常」と思われている側にも、見えていないものがあります。認知症の人だけが特殊なのではなく、健常者もまた、自分の認識や価値観という一つの世界に生きています。その二つの世界が出会うところにこそ、本当の対話が生まれるのではないでしょうか。医療機関などでは通常、患者は「ケアを受ける人」、医療者や介護者は「ケアを与える人」と役割が固定されがちです。しかし、この映画ではその関係が何度も反転します。
ステージⅣのがんを抱える演出家の真理は、自らの死を目前にしながらも、絶望に沈むのではなく、「人と触れ合うこと」「身体を感じること」「自然へ帰ること」という明確な方向へと向かっていきます。彼女が介護施設の職員に対して身体の使い方を教え、患者同士が互いを支え合って立ち上がる姿を示し、足をマッサージし合うことで互いを癒やしていく――。その姿は、「弱い人が助けられる」という従来の図式を崩しています。ここには、「ケアは一方向ではなく、相互的な営みである」という思想があります。また、作中で真理が語っていた「民主主義が資本主義に支配されている限り限界がある」という発言が心に残りました。これは決して「民主主義は無意味だ」という冷笑的な意味ではありません。人間を市場価値や効率、生産性だけで評価する論理が強くなると、民主主義が本来持っているはずの『一人ひとりをかけがえのない存在として扱う力』が弱まってしまう――という、切実な問題提起だったのだと私は受け止めました。
現代の介護の世界でも、「何人を何分で介助したか」「どれだけ効率的だったか」という評価基準ばかりが強くなれば、ユマニチュードが大切にする「相手に触れる時間」や「一緒に立ち上がる時間」といった非効率な営みは真っ先に削られてしまいます。しかし映画は、真理が残した豊かな身体感覚や他者との関わり方が、彼女の死後も遺された人たちの中に静かに受け継がれていく姿を示して幕を閉じます。映画が描くユマニチュードの思想も、真理の生き様も、どちらも「人が何を成し遂げたか(生産性や成果)」ではなく、「どのような関係や考え方を残したか」を真っ直ぐに見つめているのです。
マリーが目指す介護施設が導入しようとしている「ユマニチュード(Humanitude)」は、1979年頃にフランスで開発された認知症ケアの技法です。「人間らしさを尊重する」という意味を持ち、「何をするか」よりも「どのように関わるか」を重視します。ここには次の四つの柱があります。
① 見る(Gaze)
相手の正面から目線を合わせ、長く穏やかに見つめます。認知症になると周囲への不安が強くなるため、上から見見下ろされるだけでも恐怖に繋がります。まずは「あなたを一人の人間として見ています」というメッセージを伝えます。
② 話す(Speech)
ケアの最中も話しかけ続けます。たとえ返事がなくても、穏やかに言葉をかけます。「これから手を触りますね」「ありがとうございます」などと言葉を紡ぐことで、相手が世界とのつながりを失わないようにします。
③ 触れる(Touch)
触れ方にも技術があります。突然つかんだり、押さえつけないよう、できるだけ広い面でやさしく触れます。映画に出てくる足のマッサージは、まさにこの思想を象徴しています。触れることが治療ではなく、安心を共有するコミュニケーションになるのです。
④ 立つ(Verticality)
これがユマニチュードの最大の特徴です。認知症になると、安全のために座らせたまま、あるいは寝かせたままにされがちですが、この技法では「立つこと」を人間の尊厳そのものと考えます。できる限り立ち、歩き、重力を感じる時間を大切にするのです。
介護者が一方的に与えるのではなく、関係はあくまで相互的です。「まず相手を見て、触れ、同じ高さに立つ」。その身体的な関係があって初めて言葉が届き、相手の声を聴くことができるという考え方です。
この映画が描くケアのあり方、そして真理が遺した思想は、学校の教師が生徒へ指導する際の姿勢にも、非常に大きな示唆を与えてくれます。教師もまた、生徒を市場価値や一画一的な評価で「管理・選別する対象」と考えてはなりません。大切なのは、生産性の論理から離れ、まず「相手を見る」ことです。
私はこれまで40年間、学校教育に携わり、特に性教育や理科教育に関わってきました。科学教育(理科教育)においては、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)事業の支えもあり、生徒の資質を伸ばすための環境を整えることができました。これからの教師に求められているのは、そうして国や周囲から支援された環境の中で、いかに「一人ひとりをかけがえのない存在として扱う」質の高い教育を提供できるかという点です。
「不可能なことは不可能だが、可能になったときには、その直前まで不可能だったに過ぎない」この言葉は、教育の本質を突いた非常に深い示唆を含んでいると感じます。学校現場では、私たちはつい「成果」や「現在の能力」にとらわれ、「この子には無理だ」と先回りして判断してしまいがちです。しかし、その判断は未来を見通した結論ではなく、単に「今はまだできない」という現在の状態を表しているに過ぎないのです。














