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スピノザは『神学・政治論』で、「哲学する自由(libertas philosophandi)」を抑圧することこそが、国家の平和を危うくすると論じている。この考えは、学校教育にも深く関わっている。国家が人々の思考を完全には管理できないように、学校もまた、生徒の心を完全に管理することはできない。むしろ、管理によって生徒の考える自由を奪おうとすると、教育そのものが内側から壊れていく。
スピノザの根底には、「心は完全には管理できない」という人間理解がある。人間は、自ら存在し続けようとする力、すなわちコナトゥスをもつ存在である。この力は、外から与えられるものではない。生徒が知りたいと思うこと、疑問をもつこと、納得できないと感じること、何かを確かめようとすることは、その生徒自身の身体の変様や経験に根ざして生まれる。教師が命令によって生徒を一定の行動へ導くことはできても、本当に理解すること、本当に問いをもつことまでは強制できない。
ここに、管理教育の限界がある。管理教育は、しばしば生徒を外側から整えようとする。静かに座らせる。決められた答えを言わせる。評価に従わせる。失敗しないように先回りして指示する。しかし、そのような管理が強まるほど、生徒は自分で考えるのではなく、指示を待つようになる。恐怖や評価によって動かされる生徒は、一見するとよく従っているように見える。しかし、それはスピノザのいう能動ではなく、受動である。
『エチカ』において、スピノザは、人間が外部の原因によって動かされている状態を受動と呼んだ。恐怖、怨恨、不安、過度の承認欲求によって動かされるとき、人間は自分の力を十分に発揮しているのではない。逆に、自分の置かれた状況を理解し、理性によって判断し、自らの力を発揮して行為するとき、人間は能動的になる。教育が目指すべきなのは、この能動性である。
したがって、学校の目的は、生徒を従順な存在に変えることではない。スピノザが国家の目的を「自由」と述べたように、教育の目的もまた、生徒を自由にすることにある。ここでいう自由とは、好き勝手に振る舞うことではない。自分の感情や欲望にただ流されることでもない。自分がなぜそう感じるのか、なぜその問いを持つのか、何を理解しようとしているのかを、自分自身で考えられるようになることである。
この意味で、「問いを持つこと」は、教育における哲学する自由である。問いは、教師が外から押しつけるものではない。教師ができるのは、問いが生まれる場を整えることである。自然に触れる。生命に向き合う。他者と語る。失敗を経験する。予想と違う結果に出会う。そのような経験の中で、生徒の内側に問いが立ち上がる。そこに教育の核心がある。
管理教育が教育を壊すのは、生徒の行動を整えすぎるからではない。生徒の内にあるコナトゥスを信頼せず、問いが生まれる前に答えを与え、迷う前に道筋を決め、失敗する前に安全な結論へ導いてしまうからである。その結果、生徒は自分で考える力を失い、教師の期待や評価に合わせて動くようになる。そこでは、学びは成立していても、自由は育っていない。
もちろん、これは学校に規律が不要だという意味ではない。スピノザは国家を否定したのではなく、自由を可能にする制度を考えた。同じように、教育においても制度や規律は必要である。しかし、それは生徒を管理するための制度であってはならない。生徒が安心して考え、問い、対話し、試行錯誤できるようにするための制度でなければならない。
生命科学コース、森林実習、授業「生命」、SSHの研究指導、有尾類研究所で行ってきた教育は、この意味で、管理教育とは反対の方向を向いていた。生徒を外側から管理するのではなく、生徒自身の内側にある問いを信頼し、それが研究として立ち上がる場を整えようとした。教師の役割は、生徒の心を支配することではなく、生徒が自分の理性を働かせ、自分のコナトゥスを能動的に発揮できる条件をつくることであった。
スピノザのいう「哲学する自由」は、学校教育においては「問いを持つ自由」として現れる。生徒が問いを持つことを許されない学校、生徒が自分の言葉で考える前に正解へ誘導される学校、生徒の不安や違和感を管理によって封じる学校では、教育は次第に空洞化する。表面的には秩序が保たれていても、そこでは生徒の能動性が育たない。
教育とは、生徒を思いどおりに動かす技術ではない。生徒の内にある存在の力を信頼し、それが理性と問いとして発現する条件を整える営みである。管理教育が教育を壊すのは、この人間の本性に反しているからである。スピノザの思想は、学校が生徒を管理する場所ではなく、生徒が自由に考え、問いを持ち、自らの力を発揮していく場所でなければならないことを、根底から教えている。













