⑤ 研究倫理 生命を扱う研究を成立させる判断の技術
1 研究倫理とは何か ― 生命を扱う研究の出発点 ―
観察だけでは、科学は成立しない。自然を見つめ、そこに規則性を見いだし、問いを立てることは、科学の出発点である。しかし、生命科学においては、観察の対象が単なる物質ではなく、「生きているもの」であるという一点において、他の自然科学とは異なる重さをもつ。生き物は、研究者の好奇心を満たすために存在しているのではない。研究者が生命に触れるとき、そこには必ず責任が生じる。
この責任を引き受けることなしに、生命科学は成り立たない。どれほど精密な実験技術を身につけても、どれほど高度な機器を用いても、生命を単なる材料として扱うならば、その研究は科学である以前に、人間の行為として貧しいものになる。研究倫理とは、研究の外側から加えられる制限ではない。それは、生命を対象とする研究を内側から支える条件である。
私は、研究倫理を、研究を止めるための規則としてではなく、研究を成立させるための判断の技術として考えている。何を目的として研究するのか。その目的のために、本当に動物を用いる必要があるのか。用いるとすれば、どの個体を、何匹、どのような方法で扱うのか。苦痛をどのように軽減するのか。得られた結果をどのように記録し、どのように社会へ説明するのか。これらの問いを引き受けることによって、研究ははじめて信頼に足る営みとなる。
学校教育の現場でこの問題を考えるとき、研究倫理はさらに重要な意味をもつ。高校生にとって、研究活動は単なる知識の習得ではない。自分で問いを立て、観察し、実験し、失敗し、記録し、発表する過程を通して、世界に対する向き合い方を学ぶ経験である。とりわけ生命を対象とする研究では、生徒は「知りたい」という思いと、「生命をどう扱うべきか」という問いのあいだに立つことになる。この「あいだ」に立つ経験こそ、研究倫理教育の核心である。
2 声を聴き、制度に変える ― 学校改革から研究倫理へ ―
生命を扱う研究には、関係する人々の声を聴き、それを学校として説明できる制度へ変えていく必要がある。この考え方は、突然生まれたものではない。一九九九年、学校改革のためのアンケートを委員長としてまとめたとき、私は、学校が教師の理想だけで動くものではないことを強く感じた。生徒の声があり、保護者の願いがあり、教員の迷いがあり、社会の変化がある。それらを聴き取り、そこに含まれる不安や期待を教育課程や制度へと変えていくことが、学校改革の出発点であった。
研究倫理においても、同じことが言える。生命を扱う研究は、担当教員の熱意や、生徒の知的好奇心だけで進めてよいものではない。生徒が何を学ぼうとしているのか。保護者や学校はその研究をどのように受け止めるのか。教員はどのような責任を負うのか。外部の専門家は、科学的・倫理的にどのような助言を与えるのか。そして、声を持たない動物の負担や苦痛を、どのように想像し、軽減するのか。研究倫理とは、このような複数の立場を聴き取りながら、研究を社会に説明できる形へ整える合意形成の技術でもある。
一九九九年の学校改革で経験した「声を聴き、制度に変える」という姿勢は、後に、動物実験規程や動物実験委員会を整備する際の原型にもなった。教育における制度とは、上から管理するためのものではない。関係する人々の声を受け止め、生徒が安心して問いを深められる条件を整えるためのものである。その意味で、研究倫理の制度化は、私にとって突然現れた新しい課題ではなかった。生徒や保護者の声を聴き、教員の迷いを受け止め、学校として説明できる形に整えていくという点で、それは一九九九年の学校改革で学んだ制度づくりの延長線上にあった。
3 動物倫理と社会的説明責任 ― 動物を教材としてだけ扱わないために ―
この問題は、学校の内部だけで生じたものではない。動物を取り巻く社会の状況そのものが、大きく変わってきたからである。
犬や猫の殺処分については、動物愛護団体だけでなく、自治体職員や、動物に関心をもつ個々人からも疑問の声が上がり、殺処分を減らす方向で制度や取り組みが進められてきた。二〇一二年の「動物の愛護及び管理に関する法律」の改正では、都道府県等が犬または猫の引取りを所有者から求められた場合に、その引取りを拒否できる事由が明記され、引き取った犬や猫についても、返還や譲渡に努めることが定められた。保護された犬や猫を愛護センターや譲渡会を通して新しい飼い主へつなぐ取り組み、また繁殖を抑えて野良猫を減らす地域猫活動なども広がっている。
その変化は、統計にも表れている。環境省の集計によれば、二〇〇四年度には犬猫合わせて四一八、四一三頭が自治体に引き取られ、そのうち三九四、七九九頭が殺処分されていた。ところが二〇二四年度には、犬猫の引取り数は三九、四〇九頭、殺処分数は六、八三〇頭まで減少している。殺処分の数が大きく減ったことは、社会が動物の生命をどのように扱うのかを問い直してきた結果でもある。
また、この変化は犬や猫に限られない。実験動物、動物園の動物、畜産動物についても、動物の苦痛や福利に注意が向けられるようになり、飼育環境の改善が求められている。動物を人間の都合に合わせて利用するだけでなく、その動物が苦しみ、怖がり、環境に応答しながら生きている存在であることを考慮する必要が、社会的に共有されるようになってきたのである。
動物倫理とは、動物を人間と同じに扱うという単純な主張ではない。倫理は、もともと人間の行為の是非を問う営みである。しかし、その人間の行為が動物に苦痛や不利益を与えるものであるなら、動物もまた倫理的配慮の対象となる。したがって動物倫理では、動物に対する人間の行為や、その行為を支える制度のあり方が問われる。
その基本にあるのは、動物が苦痛を感じる存在であるという認識である。人間が自らの利益のために、一方的に動物へ苦痛を与えてよいわけではない。食料、衣料、展示、研究、教育など、動物を利用する場面は社会の中に存在している。しかし、そこに人間の利益があるからといって、動物の苦痛に鈍感であってよいことにはならない。避けることのできる苦痛を避け、必要以上の負担を与えないようにすることは、動物を扱う者に求められる最低限の配慮である。
動物倫理を考えるうえで、第一に大切なのは、動物を種全体としてだけでなく、個々の存在として捉えることである。自然環境や生態系の保全を考えるときには、種や個体群、生態系全体を対象とする視点が必要になる。それは環境倫理の重要な課題である。しかし動物倫理では、それに加えて、私たちの行為が目の前の個々の動物に何をもたらすのかを考えなければならない。ある研究や教育活動が、種の理解や保全に役立つ可能性を持っていたとしても、そのために扱われる一匹一匹の動物に、どのような負担や苦痛が生じるのかを考えずに済ませることはできない。
第二に、動物が感覚や情動をもつ存在であることを認識する必要がある。動物は、苦しみ、怖がり、環境に応答しながら生きている。人間の言葉で自分の状態を説明することはできないが、だからといって苦痛が存在しないわけではない。むしろ、言葉を持たないからこそ、人間の側が観察し、想像し、配慮しなければならない。
このように考えると、動物倫理の基本は、自分の行為が他者である個々の動物に危害をもたらしうるなら、その危害をできる限り避けようとする態度にある。動物を扱う教育や研究において必要なのは、動物を使ってよいか、使ってはいけないかを単純に分類することではない。なぜその動物を扱う必要があるのか。ほかの方法に置き換えられないのか。使用する個体数を減らせないのか。苦痛を軽くする方法はないのか。その問いを、自分の研究や教育活動に向けて立て続けることである。
動物倫理の議論で重視されるのは、犬や猫のように身近な動物だけではない。畜産動物、実験動物、動物園の動物もまた、苦痛を感じ、環境に応答しながら生きている。畜産動物は、最終的に人間の食料として利用されることを前提に飼育されている。その点で、殺処分を避け、新しい飼い主へつなぐことが課題となる犬や猫とは置かれた状況が異なる。しかし、最終的に食べられる動物であるからといって、生きている間の苦痛や飼育環境を考えなくてよいことにはならない。ここで重要になるのが、動物福祉、すなわち Animal Welfare の考え方である。
動物を食べることの是非については、さまざまな立場がある。植物もまた人間が生きるために利用している以上、「生き物を犠牲にしない」ことだけを単純な基準にすることはできない。しかし、動物は植物とは異なり、苦痛、恐怖、快、不快、期待などを感じる存在である。その感受性をもつ存在を、人間の利益のための単なる道具として扱ってよいのかという問いは避けられない。動物を食べることが直ちに否定されるわけではないとしても、必要以上の苦痛を与えないこと、飼育環境を改善すること、過剰な利用を避けることは、倫理的に考えなければならない課題である。
この視点は、実験動物を扱う場合にもつながっている。実験動物は、科学や医療や教育の発展に関わってきた。しかし、研究や教育の目的があるからといって、動物の苦痛や負担に鈍感であってよいわけではない。現在では、生命倫理や動物愛護、動物福祉の観点から、実験動物の扱いについても法令や指針が整えられ、研究者には説明責任が求められている。学校教育で動物を扱う場合にも、この社会的変化を避けて通ることはできない。
とくに近年、国際的な科学研究発表の場では、生命倫理や動物実験に関する条件が厳しく確認されるようになっている。脊椎動物を扱う研究では、研究内容の独創性だけでなく、事前の倫理審査、使用個体数、動物への負担、実施場所、指導体制、記録の適切さが問われる。条件を満たしていなければ、研究として優れていても発表の場に進むことが難しくなる。
山脇学園では、有尾類研究所で生命を扱う研究を進めるにあたり、動物実験規程を整備し、動物実験委員会を設置した。生命を扱う研究を中学校・高等学校の教育活動の中で進める以上、担当教員の経験や善意だけに委ねるのではなく、学校として説明できる制度が必要だと考えたからである。将来生命科学分野で活躍する可能性のある生徒に、研究技術だけでなく、生命を扱う研究に必要な判断力と責任を学ばせるためには、研究の計画、審査、実施、記録の手続きを整えておく必要があった。
そのため、大学などの研究機関の規程や関連する指針を参考にしながら、学識経験者や獣医師の助言を受け、中学校・高等学校の教育活動と課外研究の実態にふさわしい動物実験規程を作成し、動物実験委員会を設置した。高校におけるこのような制度の導入は、まだ一般的とは言えない。しかし、高校生による生命を扱う研究を学校として社会に説明できる形に置くためには、必要な制度であった。
この制度をあらかじめ整えていたことの意味は、二〇二五年に山脇学園のイモリ研究が ISEF へ進むことになったとき、具体的に現れた。山脇学園では、すでに動物実験規程があり、動物実験委員会が設置され、実験計画、審査、承認、記録の手続きが整えられていた。そのため、ISEF の審査に必要な倫理関係の書類を、学校として準備することができたのである。
4 清心女子SSHで現れた倫理の問い ― 研究の高度化が制度を要求した ―
こうした問題は、山脇有尾類研究所を設置してから初めて現れたものではない。清心女子高等学校のSSH第1期の最終年度には、生命を対象とする課題研究が高度化する中で、単に技術的に可能かどうかだけでは判断できない問題が、より具体的な形で現れてきていた。
その前史は、私が有尾類の飼育下繁殖に取り組んでいた時期にすでに始まっていた。二〇〇九年の「女子校で有尾類と付き合って二十年」の中で、私は、オオイタサンショウウオやイボイモリの飼育下繁殖に成功したことに触れている。しかし同時に、人工繁殖させて自然に帰しても、生息数の減少を引き起こした原因を解明し、解決しない限り、個体数の増加にはつながらないと考えていた。また、飼育された個体を自然に帰すこと自体にも問題があると指摘していた。
この気づきは、私にとって大きかった。オオイタサンショウウオやイボイモリを卵から育て、飼育下で自然産卵や人工授精を試みることは、希少な有尾類を理解するうえで大きな意味を持っていた。しかし、生命を扱う研究では、技術的にできることと、実際にしてよいことは同じではない。産卵させることができる。人工授精ができる。飼育下で成熟個体まで育てることができる。けれども、その個体をどのように扱うのか。その結果を自然や地域個体群にどのように接続するのか。人間が生き物に介入した後の責任を、どこまで引き受けるのか。そうした問いを避けたままでは、生命科学の研究は保全にも教育にもならない。
繁殖に成功することと、保全に成功することは同じではなかった。生息数の減少を引き起こした原因がそのまま残っているなら、人工繁殖によって個体を増やしても、その個体が自然の中で維持されるとは限らない。さらに、飼育された個体を自然に戻すこと自体にも、遺伝的攪乱、病原体の持ち込み、地域個体群への影響など、慎重に考えなければならない問題がある。この経験が、後に私が研究倫理を制度として考えるようになる出発点の一つになった。
同じ時期に、学校周辺の水田地帯でミシシッピアカミミガメを捕獲したときにも、それを元の場所に戻すのか、外来種として駆除するのかという問いが生じた。データを得るためには、時に動物の生命に関わる判断を避けることができない。しかし、その判断を、生徒の研究意欲や教員の経験だけで進めてよいのか。動物を犠牲にする可能性を含む研究を、生徒にどのように考えさせるのか。そこには、科学的必要性と生命への配慮を同時に考える教育が必要であった。
さらに、サンショウウオやイモリなどを対象とする研究が高度化していく中で、核移植、遺伝子組み換えのような実験を高校で扱うことができるのかという問いも生じていた。高度な実験技術を導入することは、探究を深める可能性を開く。しかし同時に、それは学校教育の中で生命をどのような手続きと責任のもとに扱うのかという問題を鋭くする。
つまり、清心女子SSHの段階で、研究の高度化と倫理の制度化は、すでに同時に問われていたのである。この時点では、現在の有尾類研究所のような動物実験規程や動物実験委員会が整備されていたわけではない。しかし、生命を扱う課題研究を本物に近づけようとすればするほど、倫理的判断を個人の経験や善意に委ねておくことはできないという認識は、すでに芽生えていた。
この前史があったからこそ、後に有尾類研究所では、研究倫理を制度として明確に整える必要があったのである。人工繁殖に成功しても、それだけでは保全にならない。外来種を捕獲しても、その後の扱いを考えなければならない。高度な実験技術を導入しても、その手続きと責任を明確にしなければならない。清心女子SSHで現れていたこれらの問いは、山脇有尾類研究所において、動物実験規程、動物実験委員会、実験計画書、教育訓練という形で、制度として引き受け直されることになった。
5 有尾類研究所における倫理制度 ― 動物実験規程と委員会の意味 ―
山脇学園で整備した動物実験規程と動物実験委員会は、特定の発表会に対応するために急いで用意した制度ではなかった。社会全体で動物の扱いが問い直され、中等教育における科学研究が高度化していく中で、生命を扱う研究を学校として説明できる形に置く必要があった。清心女子SSHの段階で現れていた倫理的課題を、山脇有尾類研究所では、動物実験規程、動物実験委員会、実験計画書、教育訓練という形で引き受け直したのである。
有尾類研究所では、高度な実験環境を高校生に開くと同時に、その研究がどのような手続きと責任のもとで成立するのかを、生徒自身が体験的に学ぶ環境をつくっている。イモリやサンショウウオなどの有尾類を対象に、発生、生殖、再生、進化を研究するだけでなく、動物を飼育し、観察し、必要に応じて実験計画を立て、審査を受け、承認された手順に従って実施し、記録し、報告する。この一連の流れが、研究倫理を学ぶ教育そのものになる。
動物を扱う研究を、担当者の善意や経験だけに任せるのではなく、外部の学識経験者や獣医師の助言も受けながら、学校として説明可能な制度に置くこと。その必要から、大学・研究機関の動物実験規程や日本実験動物学会等の指針を参考に、中等教育学校にふさわしい動物実験規程を作成したのである。
学校で動物を扱う研究が高度化した以上、動物実験規程は「大学のまね」ではなく、中等教育における本物の科学研究を成立させる条件である。動物実験規程は、大学の制度を中学校・高等学校に持ち込むための形式ではない。中等教育において本物の科学研究を行おうとするなら、生命を扱う行為を、教育的熱意だけでなく、倫理的判断と社会的説明責任のもとに置かなければならない。そのための制度なのである。
こうした背景のもとで、動物実験規程を整備し、動物実験委員会を設置した。今回作成した規程では、動物実験等を適正に行うために、動物実験委員会の設置、動物実験計画の承認手続き、飼養保管施設や実験室の管理、教育訓練、自己点検・評価などが定められている。これは、高校の研究活動を大学の形式に似せるための制度ではない。生命を扱う研究を高校生が行う以上、その研究が社会に対して説明可能でなければならないからである。
制度は、ときに自由を縛るものとして理解される。しかし、教育における制度の本来の役割は、自由を抑え込むことではなく、自由が成立するための条件を整えることである。動物実験規程も、動物実験委員会も、生徒の探究心を弱めるためにあるのではない。生命を扱う研究を、学校として説明可能な営みにするための支えである。
制度があるからこそ、生徒は自分の研究がどのような責任のもとに行われているのかを理解できる。制度があるからこそ、教員も生徒も、研究対象である生命に対して誠実であろうとすることができる。
制度がなければ自由になるのではない。生命を扱う研究では、制度がなければ、自由は容易に恣意へと変わる。思いつき、好奇心、成果への焦り、指導者の経験則だけで生命を扱えば、生徒の探究は自由ではなく危うさになる。自由な研究を可能にするためには、研究目的、方法、個体数、苦痛軽減、記録、説明責任をあらかじめ問い直す構造が必要である。この意味で、研究倫理の制度化は、教育の管理強化ではない。それは、生徒を一人の研究者として扱うための条件である。
6 動物実験計画書を書くという学び ― 好奇心を説明可能な研究へ変える ―
動物実験計画書を書くことは、生徒にとって大きな学びになる。研究テーマを思いつくことと、研究を実施できる形にすることは違う。計画書を書くという行為は、その違いを生徒に突きつける。なぜこの研究が必要なのか。何を明らかにしようとしているのか。どの動物を用いるのか。代替法はないのか。使用個体数は妥当か。苦痛はどの程度想定されるのか。苦痛を減らす方法はあるのか。実験後の処置はどうするのか。安全管理はどうするのか。これらを具体的に書かなければ、研究は始まらない。
動物実験計画書は、単なる事務手続きの書類ではない。それは、自分の好奇心を、社会に説明できる研究へと変えていくための枠組みである。自分はなぜこの生命に触れるのか。その行為は正当化できるのか。得られる知見は何か。避けられる苦痛を与えていないか。その問いに向き合うことで、生徒は研究者としての第一歩を踏み出す。
実際に計画書を書かせると、生徒はそこで初めて、自分の研究が単なる「やってみたいこと」では済まないことに気づく。何匹使うのかと問われると、漠然と「多い方がよい」とは書けなくなる。なぜその個体数が必要なのかを説明しなければならない。麻酔や処置の方法を書くときには、自分の操作が動物の身体に何を与えるのかを考えざるを得なくなる。実験後にその個体をどう扱うのかを書こうとすると、研究が終わった後にも責任が残ることを知る。計画書を書くという作業は、生徒の好奇心を押さえつけるためのものではない。好奇心を、他者に説明できる研究へと変えるための学びなのである。
7 3RとRespect ― 生命を材料にしないための問い ―
ここで重要になるのが、3Rの原則である。Replace、すなわち可能な限り動物を用いない方法に置き換えること。Reduce、すなわち科学的妥当性を保てる範囲で使用個体数を減らすこと。Refine、すなわち痛みや苦痛を最小限に抑えることである。APRINの中等教育向け研究倫理ハンドブックでも、脊椎動物を対象とする研究において3Rが基本原則として示され、さらに生命への尊敬を意味するRespectを加えて4Rとして扱う考え方も紹介されている。
しかし、3Rを単なる用語として覚えるだけでは不十分である。Replaceとは、「本当にこの動物を使わなければならないのか」と問うことである。Reduceとは、「必要以上の個体を用いていないか」と問うことである。Refineとは、「避けられる苦痛を与えていないか」と問うことである。そしてRespectとは、「この生命を単なる材料として扱っていないか」と自分に問い続けることである。
3Rは手続きであり、Respectは態度である。研究倫理教育において本当に大切なのは、この態度を育てることである。生命を扱う研究では、判断はいつも一つの正解に落ち着くわけではない。研究上の必要性と生命への配慮は、ときに緊張関係に立つ。保全のために個体を捕獲しなければならない場合がある。病気や外来種問題のために、個体を隔離しなければならない場合がある。解剖によってしか得られない情報がある場合もある。そのとき必要なのは、「してよい」「してはいけない」を機械的に分類することではない。科学的必要性、法的妥当性、動物福祉、社会的責任、生命への敬意を同時に考え、判断し、その判断を他者に説明する力である。したがって、研究倫理教育で生徒に教えるべきなのは、「この実験は許されるか、許されないか」という単純な分類ではない。むしろ、生徒が自分で問い直せるようになることである。本当に必要か。減らせないか。苦痛を軽くできないか。生命を材料として扱っていないか。この四つの問いを、自分の研究に向けて立てられるようになること。それが、研究倫理を学ぶということである。
8 保護するために介入する倫理 ― オオカミ再導入から有尾類の放流を考える ―
生命を扱う倫理は、動物を傷つける実験の場面だけで問われるのではない。むしろ、保護しようとするときにも、同じように厳しい判断が求められる。絶滅しそうな生き物を増やしたい。失われた生態系を回復したい。人間が壊した環境に、もう一度生命を戻したい。その思いは、生命に対する敬意から生まれる。しかし、その思いだけで個体を野外へ放すことはできない。
私は、フランスのピアニストであるエレーヌ・グリモーを好きな演奏家の一人として聴いてきた。彼女がオオカミ保護に深く関わり、アメリカで Wolf Conservation Center を設立したことを知ったとき、音楽家がなぜオオカミに向かったのかということに、強い関心を持った。山本宣治が生物学者としてイモリの精子発達を研究しながら、性教育や産児調節運動に関わったことにも、同じような越境がある。生命を研究することは、研究室の中だけで完結しない。生命をどう扱うのかという問いは、教育、社会、制度、文化の問題へ広がっていく。
オオカミの再導入は、そのことをよく示している。イエローストーン国立公園では、かつて駆除によって姿を消したオオカミが、一九九五年以降に再導入された。オオカミが戻ったことで、エルクなどの草食獣の数や行動が変わり、植生や腐肉を利用する動物にも影響が及んだとされている。生態系の中で上位捕食者が果たす役割を示す事例として、この再導入はしばしば成功例として語られる。
しかし、成功例であっても、問題が消えるわけではない。オオカミは国立公園の境界を知らない。公園の外へ出れば、家畜被害、狩猟、住民の不安、管理権限、補償制度の問題が生じる。再導入された動物が野外で生きるということは、単に個体が増えることではない。その動物を受け入れる環境と社会の関係が、もう一度組み直されるということである。
この問題は、哺乳類であるオオカミだけの話ではない。有尾類の保全でも同じである。絶滅危惧種のサンショウウオを卵から育てることができる。人工池で繁殖させることができる。幼生を育て、変態させることができる。けれども、育てた個体を野外へ戻してよいかどうかは、別の問題である。地域個体群の遺伝的構造、病原体の持ち込み、飼育環境で受けた選択、放流先の環境収容力、個体の健康状態を考えなければならない。増やす技術は、そのまま保全の正当性にはならない。
有尾類研究所を開いてから、私は地元のトウキョウサンショウウオの卵嚢を生息地から受け取り、飼育して現地に放流する活動に関わったことがある。ところが二年目、放流しようとした幼体の中に弱った個体がいたことが問題になった。その年、私は飼育放流活動をやめた。今から考えても、それは小さな失敗ではなかった。保護しようとする活動の中にも、生命を危うくする可能性があることを、具体的な個体の状態を通して突きつけられた経験であった。
現在、有尾類研究所では、学内のビオトープに放流するために、私が自宅のブロック塀に囲まれた庭につくった人工の繁殖池で得られた卵嚢から育てたオオイタサンショウウオを用いている。オオイタサンショウウオは、絶滅危惧Ⅱ類に位置づけられる日本固有のサンショウウオであり、だからこそ、むやみに放流して増やすことはできない。
保護は、善意だけで行える行為ではない。保護の名のもとに、遺伝子を攪乱してしまうことがある。病原体を運んでしまうことがある。野外で生きられない個体を放してしまうこともある。人間が壊した環境をそのままにして、個体だけを補充することで、保全したつもりになる場合もある。人工繁殖、飼育、放流、再導入は、いずれも生命を守るための介入である。しかし、介入である以上、その行為には説明責任が生じる。
この視点に立つと、オオサンショウウオ交雑個体の問題も、単なる外来種防除の問題ではなくなる。在来のオオサンショウウオを守るためには、チュウゴクオオサンショウウオとの交雑個体を管理しなければならない場合がある。しかし、その交雑個体もまた、人間の活動の結果として生じ、川の中で生きてきた一つの生命である。守るために増やすこと、守るために放すこと、守るために防除すること。そのどれもが、生命への敬意と科学的根拠なしには正当化できない。
研究倫理とは、研究を止めるための規則ではない。同じように、保全倫理も、保護活動を止めるための規則ではない。それは、善意をそのまま行為に移すのではなく、その行為が生命と生態系に何をもたらすのかを考え、必要な手続きを整え、結果を記録し、社会に説明できる形にするための判断の技術である。オオカミの再導入も、サンショウウオの放流も、オオサンショウウオ交雑個体の解剖も、対象は異なっている。しかしそこには、生命を扱う者が避けて通れない同じ問題がある。人間は、生命を守るためにどこまで介入できるのか。そして介入した後の責任を、どこまで引き受けるのか。
9 オオサンショウウオ交雑個体の倫理― 死後の身体を有尾類研究として引き受ける ―
二〇二五年、山脇学園の生徒がISEFに派遣されることになった際、私は新聞記者の取材に対応した。その記者が関わった朝日新聞の連載「最期をつくる人」は、愛猫の安楽死、家畜感染症に伴う殺処分、実験動物の致死処置、食肉処理、動物園動物の安楽死を扱っていた。五つの記事は、動物の死を一つの立場から裁くものではなかった。そこにあったのは、伴侶動物、家畜、実験動物、食肉となる動物、展示動物という異なる場面で、人間が動物の生命を利用し、ときにはその最期を決めざるを得ない現実であった。
この連載を読んで、私は有尾類研究所で扱ったオオサンショウウオ交雑個体のことを考えた。動物の死は、死んだという事実だけで終わるのではない。その死に至るまでに、誰が、どのような理由で、どのような判断をしたのか。そして死後に残された身体を、人間がどのように扱うのか。そこまでを含めて、生命を扱う研究の倫理は問われる。オオサンショウウオ交雑個体の解剖は、まさにその問いの中にあった。
日本の在来種であるオオサンショウウオは、国の特別天然記念物に指定され、日本列島の河川環境の中で長い時間をかけて生き残ってきた有尾類である。巨大な身体をもつだけでなく、発生、生殖、成長、長寿、再生、河川生態系への適応を考えるうえで、重要な研究対象でもある。その身体には、両生類が水と陸のあいだで生き延びてきた長い進化の時間が刻まれている。
また、オオサンショウウオは、河川生態系の中で上位に位置する生物でもある。サワガニ、魚類、水生昆虫、カエルなど、多様な生物が生きる川でなければ、その巨大な身体を維持することはできない。オオサンショウウオが生きているということは、その川に、水質、餌資源、巣穴、繁殖場所、流れ、岩場、そして人間の暮らしとの関係が残されていることを意味する。したがって、オオサンショウウオを守ることは、一個体を守ることにとどまらない。地域の河川環境そのものを守ることにつながる。
有尾類研究所にとって、オオサンショウウオは、外部から偶然持ち込まれた研究材料ではなかった。イモリやサンショウウオを対象に、発生、生殖、再生、進化、保全を考えてきた研究所にとって、オオサンショウウオは、日本の有尾類研究の中で避けて通ることのできない存在であった。しかも、その対象が在来種そのものではなく、チュウゴクオオサンショウウオとの交雑個体であったことが、この研究に倫理的な課題を与えている。
近年、中国原産のチュウゴクオオサンショウウオが人間の経済活動によって持ち込まれ、野外に定着し、在来のオオサンショウウオとの交雑が確認されるようになった。問題は、外来種が増えたというだけにとどまらない。交雑が進めば、日本固有の遺伝的系統が失われる可能性がある。これは「種名」が消えるというより、長い進化の履歴が攪乱されるという問題である。
この問題をさらに複雑にしているのは、守るべき在来種であるオオサンショウウオと、排除や管理の対象となる交雑個体が、外見上も、生態系上の位置においても、単純に切り分けられるものではないということである。交雑個体は、外来種問題の結果として生じた存在であり、在来系統を守るためには管理が必要になる。しかし、その個体もまた、川の中で生まれ、生きてきた一つの有尾類である。だからこそ、この問題は、外来種を排除すればよいという単純な話では終わらない。
在来系統を守るためには、交雑個体の防除が必要になる場合がある。しかし、交雑個体もまた一つの生命である。自ら望んで交雑個体として生まれたわけではない。人間によって持ち込まれた外来種、人間の管理の失敗、人間の経済活動の結果として生じた存在である。その個体を、今度は人間が「交雑である」と判定し、防除対象とする。ここには、簡単に割り切れない倫理的な重さがある。
「特別天然記念物を守るために、別の生命を排除することは正当化できるのか。」この問いは、研究倫理の本質をよく示している。倫理とは、迷いを消すための規則ではない。むしろ、迷いを引き受けたまま、科学的根拠と生命への敬意をもって判断するための営みである。
有尾類研究所で扱ったオオサンショウウオ交雑個体の解剖実習は、まさにこの問題を含んでいた。計画では、対象となる個体が交雑個体であり、特定外来生物法に基づく飼養等許可施設で安楽死処置後に死亡確認された個体であること、その後、内臓器官、骨格、DNA試料を採取し、比較形態学および保全研究の基礎資料として活用することが記されている。 また、委員会の審査では、研究課題上も交雑種を対象とすることが読み取れるようにすること、使用個体が2個体であるため研究目的の表現を修正すること、安楽死処置の方法を具体的に記載することなどが修正意見として示された。
この判断は、突然生まれたものではなかった。かつてオオイタサンショウウオやイボイモリの飼育下繁殖に取り組む中で、私は、繁殖技術を確立するだけでは保全にならないことを学んでいた。だからこそ、交雑個体の身体を扱うときにも、得られる資料を無駄にせず、どの器官をどのように記録し、保存し、将来の有尾類研究と保全研究へ手渡すのかを、事前に考えなければならなかった。
ここに、研究倫理が具体的な制度として働いている姿がある。研究者の思いだけで実験が進むのではない。法令、研究目的、個体の由来、安楽死の方法、標本の利用、教育的意義が、第三者の視点から審査される。これによって、研究は単なる個人的関心ではなく、社会に説明可能な営みとなる。さらに、この事例にはもう一つ重要な倫理がある。それは、「解体ではなく、解剖をする」という倫理である。
オオサンショウウオの全身個体は、大学であっても容易に得られるものではない。まして交雑個体として由来が確認され、法的手続きを経て研究利用できる個体は、極めて貴重な資料である。その身体のすべてが、研究資料になりうる。DNAを採取すれば、交雑の程度を解析する手がかりになる。胃内容物や糞便を回収すれば、食性や河川生態系の中での位置づけを考える資料になる。骨格は、局所的な組織切片だけでなく、全身骨格として保存することで、将来の比較形態学的研究に役立つ。筋肉、皮膚、肝臓、腎臓、肺、心臓、生殖器官。その一つひとつが、有尾類の進化、生態、発生、保全を考える手がかりになる。
しかし、全身が貴重であるからこそ、無秩序に切り取ってはならない。どの臓器をどの順序で観察するのか。どの組織を固定するのか。DNA解析用にはどの部位を保存するのか。骨格を残すためには、どのように筋肉を外すのか。固定液は何を使うのか。写真記録はどの段階で行うのか。これらを事前に考えておかなければ、貴重な情報は一度の操作で失われてしまう。
解体とは、身体を部分に分けることである。解剖とは、身体の構造を理解するために開くことである。近年、高校の探究活動においても、解剖や動物を用いた研究が本当に必要なのかが問われるようになっている。これは、高校生の研究を制限するための議論ではない。むしろ、高校生の研究を本物に近づけるためには社会的な考慮が必要となってきたからこそ、その研究に倫理を求めるのである。何を知るために解剖するのか。解剖以外の方法では得られない知見なのか。得られた身体をどのように記録し、未来の研究へ手渡すのか。この問いに答えられるとき、解剖は単なる解体という作業ではなく、生命を理解するための貴重な研究になる。解剖には、事前の学びが必要である。文献を読み、図譜を確認し、臓器の位置を予測し、切開の順序を考え、記録の方法を準備する。そうした準備を経て初めて、メスを入れる行為は科学になる。
高校生にとって重要なのは、メスを使う技術そのものではない。メスを入れる前に学ぶ姿勢である。何も知らずに身体を開けば、それは単なる作業である。しかし、対象の生命史を学び、体の構造を予測し、得られる情報を最大限に残そうとするならば、解剖は生命の構造を理解するための厳粛な学びになる。
「ありがたくメスを入れる」とは、提供に感謝して、できる限り準備し、できる限り正確に観察し、できる限り無駄にしないという態度である。すでに死亡した個体であっても、その身体を雑に扱ってよいわけではない。むしろ、死後に残された身体から何を学び、どのように記録し、どのように未来の研究に手渡すのかを考えることが、研究倫理の一部なのである。生命を扱う研究倫理とは、生命を傷つけないための倫理であると同時に、すでに失われた生命を無駄にしないための倫理でもある。
10 日常の手続きに宿る倫理 ― 有尾類研究所は判断力を育てる場所である ―
この視点は、動物実験室の日常にもつながる。研究倫理は、委員会の審査や計画書の中にだけ存在するものではない。飼育室に入るとき、動物の状態を観察するとき、餌を与えるとき、水を替えるとき、実験器具を準備するとき、記録を残すとき、その一つひとつに倫理がある。動物実験室利用マニュアルでは、承認された計画の実施者であること、倫理・安全教育を受講していること、生徒が実験的処置を行う場合には原則として教員が立ち会うことが定められている。 このような日常的な手続きは、形式的な管理ではない。生命を扱う研究者としての態度を、日々の行為の中に刻み込むための仕組みである。
研究倫理を学ぶとは、正しい答えを暗記することではない。生命を前にして、問いを立て続けることである。自分の行為は必要なのか。より負担の少ない方法はないのか。この個体から何を学ぶべきなのか。得られた知見をどのように次の生命の保全へつなげるのか。その問いを持ち続けることが、研究倫理の学びである。
有尾類研究所が提供しているのは、動物実験を行う場所だけではない。動物実験を計画し、審査を受け、実施し、記録し、振り返ることを通して、生命を扱う研究に必要な判断力を育てる環境である。ここでは、生徒は単なる学習者ではない。もちろん、大学の研究者と同じ責任を単独で負うわけではない。しかし、研究の過程に参加する者として、生命に対する責任の一端を学ぶ。そこに、高校生を本物の科学研究に参加させる意味がある。
有尾類研究所では、生徒が生命に触れようとするとき、その行為にどのような意味と責任があるのかを、教員、専門家、学校、そして生徒自身がともに考えるための制度を整えた。制度は、思想を失えば管理になる。しかし、生命に対する敬意と、生徒の問いを支える思想に支えられるとき、制度は自由な探究を成立させる条件になる。
ここでいう思想とは、研究に関わる人々の声に耳を傾け、言葉を持たない生命の状態を観察しながら判断することである。生徒の「知りたい」という声を聴く。保護者の願いを聴く。教員の迷いを聴く。専門家の助言を聴く。そして、動物の状態を観察し、その負担を想像する。研究倫理とは、これらをばらばらに扱わず、生命を扱う研究が社会に説明できる形へ整えることである。
研究倫理の章で私が示したいのは、このことである。生命を扱う研究を学校教育の中に置くならば、そこには必ず制度が必要になる。しかし、その制度は研究を萎縮させるためのものではない。生命に対する敬意を失わずに、科学の自由を成立させるためのものである。生徒が問いを持ち、生命に向き合い、迷いながらも判断し、その判断の重さを引き受ける。そのような教育を可能にするために、研究倫理は必要なのである。
有尾類研究所は、生命を扱う研究を通して、生徒が科学の技術だけでなく、科学を行う人間の責任を学ぶ場所である。それは、動物実験を行う場所である以前に、生命を前にして判断する力を育てる場所なのである。














