1956年に生まれ、1979年に大学を卒業した私は、「高度経済成長の熱気」とともに育ち、成熟社会への転換点で社会に出た世代である。1956年は、フランクルの『夜と霧』という「意味への意志」を問う名著が日本に紹介された年でもある。激動の25年を経て、「変わっていく時代に何を信じればよいのか」「教育は何のためにあるのか」、そして「これから残された人生をどのように生きるのか」という問いに向き合わざるを得ない。不透明な時代であると感じざるを得ないが、「生きることに意味がある」という信念のもとに日々を過ごしている。
ロストジェネレーション(1993~2005年頃までの就職氷河期世代)が「既存の枠組みが崩壊した後」に社会へ放り出された世代であるとすれば、私の世代は「強固な枠組みが形成される過程の中で、そこからいかに自分を解き放つか」を模索した世代であったと言える。
私が生きてきた1956年から1980年代にかけての時代背景を振り返ると、1950年代後半から60年代は「規律と国民的エリートへの道」の時代であった。1956年には経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言し、教育は焦土からの復興を担う「産業戦士」の育成に主眼が置かれていた。全国どこでも一定水準の教育を保障するため、学習指導要領は「試案」から法的拘束力を持つ「告示」へと移行し、教育の標準化が進められた。また、日本においてフランクルの『夜と霧』が広く読まれた背景には、戦争の惨禍を乗り越え、過酷な状況の中でいかに「生きる意味」を見出すかという切実な問いがあった。1970年代は「競争の激化と安定への希求」の時代であった。私が卒業を控えたこの時期、日本はオイルショック(1973年)を契機に、それまでの右肩上がりの成長神話に初めて疑問を抱いた。人口の多さを背景に受験競争は激化し、「受験地獄」という言葉が一般化した。1979年には共通第1次学力試験が導入され、数値による序列化が一層進んだ。さらに1970年代中盤の不況により民間企業の採用は不安定となり、「一生安泰」とされた公務員や、社会的地位の高い教員に人気が集中した。これは、自由よりも「生活基盤の確保」が生存戦略として優先された結果である。
この25年間を総括すれば、学校は「社会の歯車」を育成する場として機能する一方で、そこからあふれ出る個人の葛藤が顕在化した時代であった。1970年代後半から80年代にかけて、校内暴力や不登校(当時は「学校嫌い」)が社会問題化したことは、厳格な校則や管理教育に対する若者の反発であり、「自分らしさ」を問い始めた兆候であった。こうした状況の中で、私はフランクルの思想にも通じる問い、すなわち「何のために働くのか」「組織の中でいかに自分を保つか」という精神的充足の問題に向き合い、生徒にメッセージを届けるために学級通信を毎日発行していた。
私の世代は、「昭和の組織型人間」としての完成形を求められながら、同時に「個の確立」を志向し始めた過渡期の世代である。バブル崩壊後の1993年から2005年頃に就職活動を行ったロストジェネレーションが、「社会に入る枠そのものが存在しない」ことに苦しんだのに対し、私の世代は「強固すぎる枠」の中で、いかに自己を埋没させずに生きるかという葛藤を抱えていた。そうした葛藤の蓄積こそが、今日における「多様な生き方」を認める教育のハブとなる有尾研開設の萌芽となったと考えている。















