1. 清心女子高等学校の共学化と、地域の教育環境の転換
2025年10月8日、学校法人ノートルダム清心学園が運営する清心中学校・清心女子高等学校が、2027年4月より男女共学化(高校は「清心高等学校」へ改称)されることがマスコミ各社で一斉に報道されました。
学園側が挙げている共学化の主な背景は、以下の2点です。
〇少子化による受験人口の減少への対応
〇多様性を尊重する「共生志向」の社会的な高まりへの対応
今回の共学化により、岡山県内からいわゆる「女子校(高校)」がすべて姿を消すことになり、地域の教育環境としても大きな転換期を迎えることになります。この大きな変革のなかで、これまで20年の歴史を刻んできた「生命科学コース」もまた、その幕を閉じようとしています。同コースは、高校生の科学研究の世界大会である「ISEF(国際学生科学技術フェア)」への日本代表派遣回数で全国2位の成果を上げるなど、本校の教育の根幹を担ってきました。現在もカリフォルニア工科大学をはじめ、国内外の生命科学分野で研究者として活躍する卒業生を数多く輩出しています。これほどの成果を上げてきた教育が、もう必要とされない時代になってしまったのでしょうか。ここで改めて、その歩みと思想を振り返りたいと思います。
2. 生命科学コースの開設と、情緒から生まれる「問い」
2006年度に清心女子高等学校に開設された生命科学コースは、私にとって科学教育改革の大きな出発点でした。しかし、このコースは、単に理系進学者を増やしたり、医学部や薬学部、生命科学系学部への進学実績を掲げたりするためだけにつくったものではありません。むしろ、それまでの学校教育のなかでは十分に育てられてこなかった「生命に向き合う感受性」「自然のなかで問いを持つ力」、そして「自分の研究に責任を持つ姿勢」を育てるために構想したものでした。そのため、生命科学コースの最初の一年には、本格的な科学研究が始まる前に、3つの大きな教育プログラムを導入しました。
〇 4月からの授業「生命」
〇 7月の森林調査を中心とする「森林実習」
〇 3月のサバ大学での「海外実習」
これらは、研究成果を早く出すための前段階ではありません。生徒が生命や自然、そして世界に対して、自分自身の問いを持つための大切な経験でした。
研究は、方法や知識だけで始まるものではありません。数学者の岡潔氏の言葉を借りれば、「問いは情緒から生まれる」のです。森の静けさに触れ、雨や霧を体験し、異なる文化や自然に出会い、生命の不思議さに心を動かされる――。そのような経験の蓄積があって初めて、生徒は「なぜだろう」と自ら問うようになります。これらのプログラムは、まさにその「情緒」が育つ場を、学校の制度として形にしようとした試みでした。
哲学者・スピノザの思想に照らせば、教師が生徒の内面を支配することはできず、問いを無理に与えることもできません。問いとは、生徒自身の中にある生きようとする力、すなわち「コナトゥス(自己保存の傾向・本質的な活力)」からしか生まれないのです。教師にできるのは、その力が理性として働き始めるための「条件」を整えることです。生命科学コースは、管理でも放任でもなく、生徒が自分の問いを持ち、その問いに責任を持って向き合うための教育環境そのものでした。
3. 確かな成果と、時代の風潮への危惧
20年が経過した現在、生命科学コースは科学研究において全国でも高い成果を出し続けています。ISEFに出場するような優れた研究も次々と生まれており、その意味でこのコースは決して失敗したわけではありません。教育実践としては、極めて確かな成果を残してきたと言えます。
それにもかかわらず、生命科学コースが閉じられようとしていることに、私は深い寂しさを禁じ得ません。ただしそれは、単に自分が立ち上げたものが失われるからではないのです。私がより強く危惧しているのは、学校が時代を深く理解して教育を刷新するのではなく、世の風潮に表面的に反応するだけになっているのではないか、という点にあります。
私学にとって生徒募集は重要であり、進学実績も無視できません。社会の変化に対応していく必要があることも重々理解しています。しかし、進学先を看板にし、コース名を細かく分け、時代に合っているように見せることだけが、本当の教育改革なのでしょうか。
「社会の風潮を理解すること」と「風潮に反応すること」は異なります。
理解するとは、時代の奥にある不安や願いを読み取り、学校として何を守り、何を変えるべきかを熟考することです。
反応するとは、目の前の流行や競争に合わせて、外から見えやすい形を素早く変えることです。
賢く、狡猾に、素早く反応することは、一見すると現実的で要領よく見えるかもしれません。しかし、それは非常に危険なことでもあります。なぜなら、反応だけで動く組織は、自分がこれまで何を大切にしてきたのかという「原点」を見失ってしまうからです。制度は残っていても思想が失われ、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)という看板はあっても生徒が問いを持つ条件は痩せていく。研究成果は出ていても、そこに至るまでの情緒や時間、そして共に学ぶ共同体が削られていくのではないかと危惧しています。
4. 現代における「至誠」のあり方
吉田松陰のいう「至誠」とは、単なる熱意ではありません。自分が正しいと信じたことに対して、行動と責任を引き受ける生き方のことです。ただし、松陰の至誠には危うさもありました。自分の正しさを絶対化してしまえば、他者の声を聴けなくなるからです。
だからこそ、現代の教育における至誠は、自己の信念を貫くだけでは足りません。生徒の声、保護者の願い、教員の迷い、専門家の助言、そして言葉を持たない生命の状態を丁寧に聴き取りながら、制度を育てていく誠実さでなければならないと考えています。
私が生命科学コースで試みたのは、まさにそのような至誠でした。自分の信念を押しつけるためではなく、生徒が自分自身の問いを持てる場をつくること。生命に触れることの意味と責任を、学校教育のなかで考え続けること。そして、科学研究を一部の特別な生徒だけの成果競争にせず、学校の中に開かれた「学びの共同体」として位置づけること。それこそが、生命科学コースの思想だったのです。
5. 今の時代だからこそ必要な教育
私はすでに退職した身であり、現在の学校の方針を変える立場にはありません。組織には組織の事情があり、少子化やコロナ禍以降の学校選択の変化など、時代の大きな圧力があることも十分に承知しています。そのすべてを無視して、ただ理想だけを語ることはできません。
しかし、それでも言い残しておきたいことがあります。生命科学コースは、まだ今の時代に応え続けることができる教育であり、むしろ今の時代だからこそ必要な教育であったということです。
AIが情報を瞬時に集め、社会が効率と成果を求め、人間が自分で感じ取り考え続ける時間を失いつつある現代において、生命科学コースが大切にしてきたものは決して古くなっていません。
〇自然のなかで立ち止まること
〇 生命の小さな変化に気づくこと
〇 自分自身の問いを持つこと
〇 結果がすぐに出ない研究に耐えること
〇 他者とともに考えること
これらは、これからの教育において、ますます必要とされる地力です。もし生命科学コースが閉じられるのだとすれば、それはコース自体が時代遅れになったからではなく、学校が時代の深い要求を読み取るよりも、表面の風潮に反応する方向へ傾いてしまった結果ではないかと感じています。
そして、この危うさは清心女子高校だけの問題ではありません。私が2024年度に文科省のSSH採択を受けて開設した「有尾類研究所」もまた、運営の仕方を誤れば同じ危険に陥ると感じています。SSHという看板のもとで注目され、研究成果を出し、外部から評価されているように見えても、そこにある思想が継承されなければ、私が去った後、短い時間で消えていく可能性があるからです。制度は思想を失えば単なる「管理」になり、研究所は問いを失えばただの「施設」になり、SSHは自由を失えば見かけ倒しの「看板」になってしまいます。
6. 未来へと受け継がれる思想
それでも、私は決して絶望しているわけではありません。たとえ生命科学コースという制度が閉じられても、そこで育った生徒たちがいます。森林実習で森を歩いた生徒、授業「生命」で自らの生き方を考えた生徒、海外研修で世界の広さを肌で感じた生徒、そして有尾類の卵や幼生を観察しながら生命の時間に触れた生徒たちがいます。そのかけがえのない経験は、学校の制度が変わっても、簡単に消え去ることはありません。
教育の本当の成果は、コース名や募集パンフレットの中に残るのではなく、生徒の中に残り、教員の記憶に残り、次に何かを始めようとする人の判断の中に残るものです。制度は消えても、その思想は、誰かが受け取ってくれれば必ず生き続けます。
だからこそ私は、生命科学コースを閉じることへの思いを、単なる批判としてではなく、未来への「一つの問い」として残したいのです。
〇 学校は、時代の風潮に反応するだけでよいのでしょうか。
〇 教育は、進学先を看板にすることで刷新されるのでしょうか。
〇 科学研究は、成果を出すためだけにあるのでしょうか。
〇 生徒が自分の問いを持つ条件を、学校は本当に守ろうとしているでしょうか。
〇 生命に向き合う教育を、これからの時代にどのように残していくのでしょうか。
この問いに答える責任は、もう私だけのものではありません。けれども、この問いを立てた責任は私にあります。20年前、生命科学コースを開いたとき、私はその問いを学校の中に置きました。今、その制度が閉じられようとしているからこそ、最後にもう一度、その問いを言葉として残しておきたいと思います。
教育とは、目先の風潮に反応することではありません。時代の奥にある人間の不安と希望を理解し、生徒が自分の問いを持てる条件を整えることです。生命科学コースはそのために生まれ、有尾類研究所もまた、そのためにあります。
たとえそれらの形が消えるとしても、そこに込めた思想まで消してはならない――。それこそが、私が最後に残しておきたい切なる願いです。














