漫画『キングダム』(ヤングジャンプコミックス)を原作とするアニメ第23話「世語り」では、「蚩尤(しゆう)」と呼ばれる暗殺民族の存在が描かれます。
蚩尤とは、山奥に隔絶して暮らし、暗殺を生業とする一族で、国家や法に属さず、「技」と「血筋」だけを価値基準とする一族です。
その一族の老婆が、盗賊に襲われた場面で語る「剣とは元来人を斬るものにあらず。太古の世、神を祭る神器として生まれしものなり」という言葉は、蚩尤の思想世界を象徴しています。ここで示されている剣は、単なる殺傷具ではなく、神聖なものと人とをつなぐ媒介であり、儀礼や祭祀に用いられる道具、すなわち生と死の境界に触れる象徴として位置づけられています。
特に蚩尤の思想において、剣は「殺すための道具」である以前に、「神・死者・世界と交信するための器」です。したがって、剣を振るうことは単なる技術行為ではなく、生き方そのもの、世界との向き合い方そのものとして描かれます。
剣の技量は、人格や信仰、覚悟と切り離されることがありません。
蚩尤という集団の最大の特徴は、その継承システム「祭」にあります。「祭」とは、宗教儀礼であると同時に、選抜装置そのものです。
当主は常に一人であり、次代の当主は、同世代の子ども同士による本気の殺し合い(人為的に設計された、極限まで強度を高めた淘汰)によって決定されます。
生き残る者は圧倒的に強く、弱者は存在しない。この構造は、感情や偶然を排除し、純粋な「強さ」だけを残すための仕組みです。
そのため蚩尤の文化では、感情に左右されること自体が否定されます。「情」は最大のノイズであり、仲間意識や愛着、同情は暗殺の失敗要因とされます。
こうした思想を内面化させるために、教育として徹底されるのは、沈黙、孤立、そして自己否定です。感情を持つこと自体が罪であるかのように扱われます。
一族の末裔である羌瘣(きょうかい)が、無口で無表情な人物として描かれているのは、単なる性格設定ではありません。それは、蚩尤という文化が個人に残した深い後遺症であり、感情を殺すことを強いられた教育の結果なのです。
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『キングダム』において、羌瘣が戦闘中に「トーンタンタン」と口ずさむ場面は、単なる癖や演出ではありません。それは、呼吸・脈拍・身体動作を極限まで同期させるためのシャーマニズム的儀礼であり、自我を消し、個人を超えた集団神話へと接続する行為だと考えられます。
医科学的に見れば、これは過呼吸と極度の集中によって引き起こされる意識変容状態、すなわちトランス(変性意識状態)に近いものと捉えることができるでしょう。感情や恐怖、ためらいといったノイズを遮断し、反射と技だけが前景化された状態で戦っている――羌瘣の強さは、ここに支えられています。
しかし同時に、蚩尤という文化は、強さをあまりにも純化しすぎた結果、人間性を削ぎ落としてしまった文化でもあります。感情は排除され、弱さは否定され、個は孤立し、ただ「最強の個体」だけが残る。そこには、死を悼むことも、傷を分かち合うことも許されません。
この物語が興味深いのは、羌瘣がその蚩尤文化から抜け出そうとする存在として描かれている点です。信のいる世界では、仲間の死が悼まれ、恐怖や弱さが否定されません。失敗しても、理解し合い、支え合う関係性が存在します。
羌瘣はそこで初めて、「強さとは何か」「人と共に生きるとはどういうことか」を学んでいきます。
さらに物語は、三つの異なる集団原理を私たちに提示します。
蚩尤の「個体最強主義・孤立文化」
信の率いる隊の「集団進化・関係性の文化」
嬴政が目指す国家の「制度による集団化」
ここで問われているのは、物語世界の選択だけではありません。
自分自身の生き方として、どの集団原理を選ぶのか――
孤立した強さか、関係性の中での成長か、制度に守られた秩序か。
今の社会に照らし合わせたとき、競争を煽る個人主義、チームでの進化、システムによる管理と安全保障、私たちはどこに身を置き、何を選び、何を失っているのでしょうか。
『キングダム』は、戦争漫画の形を借りながら、「強さとは何か」「人はどのような集団で生きるべきか」という、きわめて現代的な問いを、私たちに静かに投げかけています。














