この連載は、清心中学校清心女子高等学校 紀要 No.15 p29-33に掲載している教科では数学担当の橋岡源九郎「生命科学コースのホームルーム担任から始まった学び」を基盤に考えを紹介したものです。原文のダウンロードできます。
「生命」という授業が問い続けたこと
2年次の生命科学コースには、「生命」という学校設定科目がありました。この授業は、単に生物学的な知識を深めるためのものではありませんでした。むしろ、「生命とは何か」「人はどのように生きるのか」という問いに向き合う時間でした。
課題研究が科学的探究の"横軸"だとすれば、「生命」は"縦軸"の学びでした。知識を積み上げるだけでなく、自分自身の価値観を揺さぶる時間です。
授業では多様な外部講師を招きました。医療、研究、教育、社会活動など、さまざまな分野で活躍されている方々です。講義の内容は専門的でありながら、その多くがご自身の歩みと結びついていました。どのような迷いがあり、どのような選択を重ねてきたのか。成功談だけではなく、葛藤や転機が語られました。
印象的だったのは、授業の進め方でした。講師が一方的に知識を伝えるのではなく、生徒に問いを投げかけ、その応答を受けてさらに問いを重ねる。講師がファシリテーターとなり、生徒の内側から考えを引き出す。受動的であった生徒が、次第に能動的に変わっていく様子を、担任として何度も目にしました。
ある講義のあと、生徒がこう語りました。「正解があると思っていました。でも、答えは一つではないと分かりました。」この一言に、「生命」という授業の意義が凝縮されていると感じました。
課題研究では、仮説に対してデータを集め、論理的に結論を導きます。しかし人生には、常に明確な正解があるわけではありません。価値観の違い、立場の違い、文化の違い。その多様性を認識しながら、自分なりの立場を形成していく。科学的思考と倫理的思考が交差する場が、この授業でした。
生徒の中には、講師の言葉に触発され、自分の将来像を具体的に描き始める者もいました。「研究者になりたい」「医療に関わりたい」「環境問題に取り組みたい」。しかしそれ以上に重要だったのは、「自分はどうありたいか」という問いを持ち始めたことでした。
科学教育は、ともすると進学実績や専門知識の習得に焦点が当たりがちです。しかし「生命」の授業は、学力の向上とは別の次元で、生徒の根を支えていました。科学を学ぶことは、単に職業選択の準備ではなく、世界との向き合い方を学ぶことでもある。その視点が、徐々にクラス全体に共有されていきました。
担任として私自身も、この授業から多くを学びました。講師の問いかけの技法、生徒の意見を尊重する姿勢、対話を通して思考を深める構造。教室の在り方そのものを見直す契機となりました。翌年以降も可能な限り聴講し続けたのは、その学びが自分の教育観を更新してくれたからです。
特に心に残っているのは、生徒の表情の変化です。課題研究では実験や発表に真剣な眼差しを向ける彼女たちが、「生命」の授業では少し違う顔を見せました。迷い、考え、時に沈黙し、時に笑う。その揺らぎの中に、人としての成熟の過程がありました。
科学の学びと生き方の問いは、切り離せるものではありません。命を研究対象として扱う以上、その背後にある倫理や価値観を考えないわけにはいきません。SSHの中にこの授業が組み込まれていたことは、偶然ではなかったのだと今は思います。
生命科学コースの3年間は、「知識」「体験」「研究」が柱でした。しかしそこに「生き方」という軸が通ることで、学びは単なる技能習得を超えました。科学を通して自分を見つめ直す。その時間があったからこそ、生徒たちは研究成果以上のものを手にしたのではないでしょうか。
担任として見てきたSSHは、理系進学支援プログラムであると同時に、人間形成の場でした。「生命」の授業は、その核心を静かに支える存在でした。
【追加の説明】
次回は、生命科学コースでの経験を中学生へと広げた「数学課題研究」の取り組みについて振り返ります。SSHの学びはどのように拡張され、次世代へと受け継がれていったのか。その試行錯誤を描いていきます。















