① 教育とは、問いを持ち続ける条件を整える営みである
1 問いを持ち続ける教育とは何か
私は、高校の教育現場に長く身を置きながら、教師としてどのように生徒と関わるべきかを問い続けてきた。その過程で、サンショウウオやイモリといった有尾両生類を対象に、繁殖の研究とその教材化に取り組んできた。
私にとって研究とは、専門家としてだけ取り組むものではなかった。理科の高校教師として生徒と過ごす学校生活の中で進めてきた研究であり、生徒と好奇心を共有でき、生徒にとって手の届くものでなければならなかった。その思いが、私の研究生活と教育実践の出発点である。
教育の現場では、しばしば知識が先に置かれる。教科書があり、単元があり、到達目標があり、評価がある。生徒はそれに従って学び、教師はそれを効率よく教えることを求められる。もちろん、知識は不可欠である。基礎的な知識なしに、科学的な思考は成立しない。だが、知識をいくら積み重ねても、それだけで生徒が学ぶ主体になるわけではない。
人が真に学び始めるのは、知識を与えられた瞬間ではない。自分の中に、まだ答えの分からない「問い」が生まれたときである。なぜそうなるのか。どうしてこのような現象が起こるのか。
私自身、これまで「人は何のために生きるのか」という問いを、絶えず自らに投げかけてきた。そして、その答えを求めて哲学者や心理学者の思想に触れる中で、ヴィクトール・フランクルの言葉に出会った。
『夜と霧』の著者である彼は、「私は何のために生きるのか」「生きる意味とは何か」と人生に向かって問い詰めるのをやめ、「問いの方向を180度ひっくり返しなさい」と説く。フランクルによれば、私たちは人生の意味を問う存在ではなく、逆に人生の側から、毎日、毎時間、具体的な状況を通じて「あなたはどう生きますか」と問われている存在なのだ。私たちは言葉ではなく、自らの「具体的な行動」によってその問いに応答していく責任がある。この状況に応じる能力こそが人間の本質であり、それこそがフランクルの言う「責任」にほかならない。
この「問いと応答」の構造は、教育の場にもそのまま当てはまる。生徒もまた、自らの中に問いを持ったときに初めて、客観的な知識を「自分に関わるもの」として切実に受け取り始める。そのとき知識は、単に覚えるべき無機質な項目の集まりではなく、自らの問いに近づき、人生からの問いに応答するために不可欠な「手がかり」へと変容する。
科学教育において重要なのは、決して知識を軽んじることではない。むしろ、知識が必要とされる切実な場面を、生徒の心の中にどのように創り出すかである。私がこれまで研究に向き合ってきた時間は、そのことの大切さを、身を以て教えてくれた。
私が研究してきたイモリやサンショウウオは、こちらの都合に合わせて答えを語ってはくれない。観察しても、すぐに分かるわけではない。長い時間をかけて飼育し、記録し、季節の変化を見つめ、発生や繁殖の過程を追い続ける中で、ようやく一つの小さな疑問が形を取り始める。
観察とは、対象を支配することではない。対象の前で、自分の認識の浅さを知ることである。そして、それでもなお見続けることである。この経験は、教育の原点にも通じている。生徒もまた、こちらの都合に合わせて変わるわけではない。教師がよい話をしたからといって、すぐに理解するわけでもない。すぐに意欲を示すわけでもない。そこには時間が必要であり、待つことが求められる。生徒の中に問いが芽生えるまで、教師はその条件を整え続けなければならない。
私が最初に取り組んだのは、理科の教科指導だけではなかった。ホームルームでの関わり、性教育、学級通信、そして授業「生命」へとつながる実践である。そこでは、知識を伝達する以前に、生徒が自らの生き方を考えるための材料をどう提供するかが問われていた。
性教育は、性に関する知識を授けるだけの教育ではない。人が自分の身体をどう受け止め、他者とどう関わり、自らの人生をどう引き受けるかを考える教育である。その意味で、性教育もまた、問いを持ち続ける条件を整える営みであった。
2 学校を変えるために、声を聴く
有尾類研究所という思想は、私一人の夢から始まったものではない。もちろん、そこに至るまでには私自身の長い時間がある。学級通信を書き、性教育に取り組み、生徒とともに生命について考え、有尾類を観察し、研究の場を学校の中につくろうとしてきた個人の歩みがある。しかし、それだけでは、この思想が成立することはなかった。この思想の根にあるのは、教育を刷新するために、生徒の声を聴き、教員の声を聴き、保護者の声を聴こうとした経験である。
一九九九年、私は「西暦二〇〇〇年に清心学園は何ができるか」という学校改革プロジェクトチームのリーダーを任された。そして、その問いに応えるために、現状を分析し、改革の具体的な方針を出す役割を担うことになった。それは、清心学園が始まって以来初となる、膨大なデータを解析する全員調査であった。これまで、学校には、生徒や保護者に意見を聞いて、自分たちが進めている教育を客観的に評価してもらうしてもらう姿勢はなかったのである。
このアンケートには、単に全員へ一律に問いかけて、そのデータを解析しようとしたものではない、緻密な設計と配慮を施した。あえて中2・高2の生徒や、中1・中2・高1・高2の保護者は対象から外した。保護者は、わが子の中高の卒業を迎えた段階での意見を募り、生徒に対しては、中1・高1には「入学した時点での考え」を、中3・高3には「中高の卒業時という節目での考え」をそれぞれ問うたのである。 このアンケートでは、生徒が学校生活の中で何に満足し、何に不安を感じているのか、教員が清心の教育のどこに価値を見いだし、どこに限界を感じているのか、保護者が何を期待し、どのような進路や人間形成を願っているのかを問うた。そこには、進学実績や学力向上への要望だけでなく、宗教教育、生徒指導、性教育、学校行事、教育環境、女子校としてのあり方にいたるまで、学校生活のあらゆる側面に根ざした切実な声が含まれていた。
なかでも、性教育をめぐる意識の乖離は、私にとって極めて示唆的であった。性教育の必要性そのものを認める声は多かった。しかし、それを生徒指導上の問題として見るのか、生徒の自己決定や生き方を支える教育として見るのかには、大きな隔たりがあった。性教育を、性道徳の低下を防ぐための指導として位置づけるのか。それとも、生徒が自らの身体をどう受け止め、他者とどう関わり、自らの人生をどう引き受けるのかを考える教育として位置づけるのか。その相違は、単なる教育内容の差ではなかった。学校が生徒をどのような存在として見るのかという、教育観そのものの相違であった。
とくに私にとって鮮明になったのは、学校改革の課題が、単に新しい科目を置くことや進学実績を上げることでは済まないということであった。生徒は学校の中で、勉強だけでなく、自分の身体、友人関係、将来への不安、家庭との関係、社会の中で女性としてどう生きるのかという問題に直面している。教員もまた、その現実を前にしながら、従来の教科指導や生徒指導だけでは十分に応答できないことを感じていた。
アンケートは、そうした声を学校全体の課題として可視化する作業であった。この作業を通して、私は、学校改革とは誰か一人の理念を学校に押しつけることではないと考えるようになった。生徒の現実、保護者の願い、教員の迷い、社会の変化を聴き取り、その奥にある不安や切実な思いを読み取り、それを教育課程や制度へと結晶化させていくこと。それこそが、改革の出発点であった。
授業「生命」は、その過程の中で生まれた。それまで私が学級通信や性教育、ロングホームルームで行ってきた実践は、生徒に生き方を考える材料を届ける試みであった。しかし、一九九九年の学校改革の議論を経て、それは一人の担任の実践にとどまるものではなくなった。学校全体として、生徒が自らの生命、身体、未来、そして自身の問いを考える場を、教育課程の中に位置づける必要がある。その認識が、この新しい科目の成立へとつながっていった。
つまり、授業「生命」は、突然生まれた新しい科目ではなかった。学級通信、性教育、ロングホームルームを通して積み重ねてきた「生き方を問う教育」が、学校改革アンケートによって学校全体の課題として見直され、教育課程の中に位置づけられたものであった。 生徒に正しい生き方を教えるのではない。生徒自身が、自らの身体、他者との関係、自らの将来、そして自分の生命について考えるための材料を準備すること。これら三者の声を徹底的に聴き、学校のあり方を根底から見つめ直す経験こそが、教育の主役は誰なのかを私に再定義させた。この発想が、後の生命科学コース、SSH、科学課題研究、そして有尾類研究所へとつながっていった「思想の礎」なのである。
翻って、昨今の私立学校の動向を見渡すと、強い危機感を覚える。現在でも、建学の理念や伝統を大切にしながら、国際的な視点や情報社会の変化に対応し、教育内容を充実させている学校はある。そのような学校を卒業した生徒は、自分が過ごした学校生活を、かけがえのないものとして受け止めるだろう。
一方で、コロナ禍以降、女子校の共学化が相次いでいる。もちろん、共学化そのものが問題なのではない。問題は、教育内容の刷新を真摯に進めるために、生徒や保護者の声を聴き、客観的な調査を行い、時代の趨勢を分析したうえで学校のあり方を考えるのではなく、生徒募集の不調を理由に、安易に形だけを変えてしまうことである。女子校として培ってきた文化を十分に検証しないまま共学化へ踏み切ったり、現代社会の風潮だけを読んで、「難関校受験コース」「医学部進学コース」「系列大学進学コース」といった看板を、学校の現状を十分に考えずに立ち上げたりするケースも見られる。そこでは、目先の受験文化や学校側の都合を重んじる判断が、今の時代にあってもなお行われているように感じられる。
だからこそ、私たちは真摯に教育の今の在り方を考え、立ち止まり、問い直さなければならない。教育とは誰のためのものか。客観的に声を聴くことを恐れ、大人の都合だけで進める教育に、生徒が主体となる未来など存在しない。私が研究と現場に向き合ってきた時間は、そのことを教えてくれた。
3 問いを制度に変える 授業「生命」から生命科学コースへ
生徒の中から湧き上がる「問い」を単なる一過性のものにせず、持続的な学びへと高めるためには、それを支える強固な「制度」が必要となる。一九九九年の学校改革で可視化された生徒たちの切実な現実、そしてそこから生まれた授業「生命」の視点は、後に「生命科学コース」の設立、さらには文部科学省の「スーパーサイエンスハイスクール(以下、SSH)」事業における独自の教育プログラムへとつながっていった。
とりわけSSHへの挑戦において、私は「科学課題研究」を学校教育の最も重要な中心軸に据える試みを進めた。生徒たちが日常のふとした疑問から研究を立ち上げ、専門的な研究機器を自ら動かし、日常的に観察や実験に取り組む。そして、自らの言葉でまとめあげた成果を携えて学会発表や科学コンテストに挑戦していく――。そのような、大学や研究所の現場と変わらない、本物の探究ができる環境を学校の中に少しずつ築き上げていった。
しかし、私立女子校としてこれほど本格的な「科学教育」を前面に掲げることは、当時、決して容易なことではなかった。「理系に進む女子生徒など限られているのではないか」「生物分野を中心にした教育で、本当に大学受験や理系進学の支援と言えるのか」――。学内外からは、それまでの『中程度の女子校の常識』に基づいた疑問や批判が、少なからず寄せられた。
しかし、私の確信は揺るがなかった。生徒が自分の生命や身体に向き合うことから始まったあの内省的な問いは、外の世界へと向けられたとき、自然界の生命現象を解き明かそうとする純粋な科学への情熱へと直結する。生命科学という分野こそが、女子生徒たちの知的好奇心に火をつけ、彼女たちを自然科学の広大な世界へと導く最高の入口になると考えたのである。
生命科学は、生徒にとって遠い抽象ではない。自分の身体をどう理解するのか。生命をどのように受け止めるのか。環境や医療や動物との関わりを、科学の問題としてどのように考えるのか。そこには、生徒自身の生活や生き方に関わる問いが含まれている。だからこそ、生命科学は自然科学への入口であると同時に、人間を考える契機にもなり得る。SSHで構築しようとしたのは、理科教育を高度化するだけの教育ではなかった。知識と体験と研究を、生徒自身の問いによって結びつける教育であった。
そのために、清心女子高校のSSHで中心的な役割を果たした生命科学コースでは、まず課題研究に必要な知識や技術を学ぶ科目として「生命科学基礎」を置いた。さらに、生徒が自分の身体や生命、生き方について考える材料を得るために、授業「生命」を置いた。研究成果を他者に伝え、海外の高校生や研究者とも交流するためには、英語を単なる受験科目としてではなく、自分の考えを伝えるツールとして使う必要があった。そのために「実践英語」を設定した。
教室の中だけで問いを育てることはできない。直接的な体験が必要だと考えた。そこで、鳥取大学教育研究林「蒜山の森」での森林実習、瀬底島・座間味島での自然観察と実習、マレーシアの大学と連携した環境学習を教育課程の中に位置づけた。これらの体験は、単なる行事ではなかった。生徒が自然や社会に触れ、自分の中に生まれた違和感や疑問を、課題研究へつなげるための経験であった。
生命科学コースのカリキュラムは、科目や行事を並べただけのものではない。体験によって問いが生まれ、知識によってその問いが支えられ、研究によって問いが深まり、発表によって問いが他者へ開かれていく。その流れを、学校教育の中に組み込もうとしたのである。
知識だけでは、生徒の内側から問いは生まれにくい。体験だけでも、科学的な研究にはならない。生き物に触れ、環境を歩き、人と出会う中で生まれた違和感を、理論やデータによって支え、検証を重ねながら深めていく必要がある。私が生命科学コースで試みたのは、その過程を一部の特別な生徒だけのものにせず、学校の教育課程の中で継続できる形にすることであった。
生徒たちは、この探究の過程を通して少しずつ変わっていった。最初から自信を持っていたわけではない。発表の経験も乏しく、科学研究が自分にもできる営みだとは思っていなかった生徒も多かった。しかし、自分で問いを立て、実験に取り組み、失敗に直面してはデータを取り直し、発表に向けて論理を組み立て直していく中で、彼女たちは次第に研究の担い手になっていった。
発表の一か月ほど前になると、放課後の生物教室や理科室には生徒が集まり、ポスターの表現を何度も練り直し、図表を作り替え、原稿を何度も読んでみる日々が続いた。土日も学校や研究室に通い、発表練習には教師も生徒も立ち会った。答えに窮した箇所を調べ直し、データの意味を考え直した。
そこでは、教師が一方的に指導するだけではない。生徒自身が、自分の探究の弱さに気づき、それを何とか論理的な言葉にしようともがいていた。自分では分かっているつもりだったことが、他者に説明しようとした瞬間に揺らぐ。方法の不十分さも、考察の飛躍も、表現の曖昧さも、発表の準備の中で見えてくる。その不安を避けずに引き受けることで、生徒は自分の研究に対して責任を持ち始める。
発表前の準備が生徒を大きく変えるのは、知識量が急に増えるからだけではない。自分の問いを他者の前に差し出し、その問いに対して自分の言葉で応答しなければならない状況に置かれることの影響が大きい。発表の場で、研究が他者から問われるものになったとき、それは教師に提出する課題ではなくなる。生徒は、自分の問いを自分の言葉で説明し、質問に答え、データの意味を引き受けなければならない。そのとき研究は、生徒自身の経験と結びついたものとして語られ始める。そこに、学校の中に発表の場を組み込む意味は、まさにそこにあった。
4 研究の場を開く 大学オープンラボから有尾類研究所へ
教育とは、安心だけを与える営みではない。不安の中にあっても、なお問い続けようとする力を支える営みである。発表に向けて自分の研究を問い直す生徒たちの姿を見ながら、私は、研究の場を一つの学校の中だけに閉じ込めてはならないと考えるようになった。
清心女子高等学校を離れた後、私は南九州大学へ移り、理科教育研究室を主宰した。中高の理科教員養成に携わる一方で、研究室の一室を地域の高校生に開いた。高校生が、学校の外にある研究の場に入り、自分の問いを持ち込めるようにしたかったのである。
大学と高校の間には、見えにくい距離がある。研究設備が整い、専門家がいる場は、高校生にとって心理的にも物理的にも遠い。そこでは、研究は選ばれた人だけが行うもののように見えてしまう。私は、その距離を少しでも縮めたいと考えた。
放課後になると、研究室の扉を叩いた地元の高校生たちが集まるようになった。彼女や彼らは、私の研究室で、地域に生息するサンショウウオをテーマに観察を重ね、学会で発表し、成果を積み上げていった。進学塾へ向かう前後に立ち寄り、自習していく生徒もいた。研究室は、実験や観察のための場所であると同時に、生徒たちが自分の問いを持ち続けるための居場所にもなっていった。
集まってきた生徒たちは、最初から探究の手法を身につけていたわけではない。機器の使い方、観察の仕方、記録の残し方、資料のまとめ方を一つずつ学びながら、サンショウウオの生態の調査、胚の発生・幼生の成長の観察などの実験で得られたデータに向き合っていった。研究室を訪れる目的も、実験だけではなかった。日々の進捗を相談し、進路の不安を話し、時にはただ黙々と机に向かって受験勉強をする。その姿を見ながら、私は、研究の場とは、高度な装置や標本が置かれた物理的な整備された部屋だけを指すのではないと考えるようになった。生徒が自分の問いを失わずに持ち続けられる関係があって、初めてそこは研究の場になるのである。
この経験が、後の有尾類研究所の構想へとつながっていった。大学の研究室を中高生に開くことには大きな意味があった。しかし、大学には大学の制度や評価の仕組みがある。高校生の探究を日常的に支え、学校教育の中心に据えるには、どうしても限界があった。ならば、学校そのものが研究の拠点になることはできないか。学校の内部に、生徒が継続して観察し、実験し、発表に向けて考え続けられる場をつくることはできないか。この問いが、山脇有尾類研究所の構想へつながっていった。
再び高校教育の現場へ戻ったとき、私が向き合ったのは、東京の都心にある学校であった。周囲には、かつて生徒と歩いたような自然、山林や水田はない。野外へ出かけ、泥にまみれながらサンショウウオを探す教育モデルを、そのまま持ち込むことはできない。だからこそ、学校の内部に、生き物を継続して飼育し、観察し、研究できる場をつくる必要があった。
二〇二三年九月十九日、東京・赤坂に山脇有尾類研究所を立ち上げた。中高生の科学探究を支え、有尾類の発生、繁殖、飼育、保全に関わる研究を継続しながら、大学や専門家、他校の生徒たちとつながる拠点をつくるためであった。そこでは、有尾類を累代飼育し、その発生や繁殖の過程を観察しながら、生徒自身が計画を立て、専門家の助言を受け、研究を進めていく体制を目指した。
学校の日常の中に、通常の授業とは異なるが、授業の思想と切り離されない探究の時間をつくること。それが、有尾類研究所に最初に課された役割であった。これは、校舎の中に実験室を一つ設けるというだけの話ではない。学校そのものが、生徒の問いを受け止め、大学や専門家や他校とつながりながら、研究を続けていく場になることを目指したのである。
5 有尾類研究所とは何か
有尾類研究所は、高等学校の校舎の二部屋を使って運営している。しかし、その名称は、建物の中に設けられた実験室だけを指すものではない。生徒が有尾類を飼育し、観察し、実験を続ける場であり、教師、研究者、大学、他校、地域の人々が関わりながら、生徒の疑問や研究を次の観察、実験、発表へつなげていく場である。そのような場として、この研究所は構想された。
しかし、本書でたどりたいのは、研究所の実績だけではない。SSHに採択され、研究発表で成果を上げ、大学でオープンラボを開き、やがて高校の中に研究所を立ち上げるまでには、多くの時間と関わりが積み重なっている。その歩みを振り返るとき、私は、成果として見える部分だけでなく、その過程を支えていた問いを確かめておきたいのである。
教育の現場で私が繰り返し目にしてきたのは、生徒たちの揺らぎであった。優秀であるがゆえに壁にぶつかり、真剣であるがゆえに傷つき、努力しているがゆえに立ち尽くす。その姿は、単なる成長の過程として片づけられるものではなかった。人は自らの限界に触れたとき、何によって再び立ち上がることができるのか。その問いが、私の教育実践の底に残り続けた。そしてそれは、私自身の歩みとも深く重なっていた。
私は、教育の制度に支えられながら生きてきた。しかし同時に、その制度の内側で、人が自分の問いを見失っていく姿も見てきた。知識は増えても、何のために学ぶのかが見えなくなることがある。評価は緻密になっても、自分が何を望んでいるのかが分からなくなることがある。進路が示されても、自らの生をどう引き受けるのかという問いは残り続ける。
だからこそ、私は教育を、知識を与え、進路を示し、成果を評価する営みとしてだけ考えることができなかった。教育は、生徒が自分の問いを失わずに、他者との関係の中で考え続けるための条件を整える営みでなければならない。有尾類研究所は、その考えを、学校の中に具体的な場としてつくろうとした試みである。
この問いは、戦後日本の教育の歩みとも無関係ではない。
6 戦後教育の中で失われた問い
私が生まれた一九五六年は、戦後日本にとって一つの節目となる年であった。この年、日本ではフランクル『夜と霧』の日本語版が刊行された。強制収容所の経験を通して、人間が極限状況の中でなお尊厳と意味を失わずに生き得るのかを問う書物が、日本の読者に届き始めたのである。
同じ年、経済白書は「もはや『戦後』ではない」と記し、日本は国際連合に加盟した。敗戦から十一年を経て、日本社会は復興の段階を越え、新しい成長の時代へ入ろうとしていた。国際社会への復帰も、その年に実現した。私が生まれた年には、人間の尊厳を問う書物が読まれ始める一方で、国家としての日本は、戦後復興から成長へと大きく舵を切っていたのである。
この重なりは、私にとって偶然以上の意味を持つように思える。戦後日本は、戦争の記憶と人間の尊厳の問題を抱えたまま、急速に復興と成長の時代へ入っていった。人間とは何か。苦しみの中で人は何によって生きるのか。その問いが消えたわけではない。しかし社会全体は、貧しさを克服し、生活を豊かにし、国家を成長させる方向へ強く動いていった。
学校教育も、その時代の力と無関係ではなかった。戦後の教育改革は、連合国軍総司令部、GHQ/SCAPの占領政策のもとで進められた。そこでは、戦前の国家主義的な教育への反省から、民主主義、自由、平和を重んじる教育への転換が図られた。子どもの生活から出発し、経験を通して学び、民主的な社会の担い手を育てるという理想も掲げられた。
しかし、一九五〇年代後半から六〇年代にかけて、日本社会が高度経済成長へ向かうと、教育に求められるものも変化していった。生活経験を重視する教育だけでは、成長する社会が必要とする知識や技術を十分に支えられないという意識が強まっていく。基礎学力を身につけさせ、系統的な知識を教え、科学技術を担う人材を育てることが、教育の重要な課題として語られるようになった。
さらに一九六〇年、池田内閣のもとで国民所得倍増計画が閣議決定されると、教育は経済成長を支える制度として、いっそう強く期待されるようになった。豊かな社会をつくるためには、能力ある人材が必要である。科学技術を発展させるためには、理数教育を充実させなければならない。産業を支えるためには、学校が次代の担い手を育てなければならない。その考え方自体は、決して誤りではない。教育が社会の発展と結びつくことには、大きな意味がある。
しかし、そこには同時に危うさもあった。教育が社会の要請に応える制度であることは確かである。だが、教育が経済成長のための人材育成に傾きすぎると、一人の人間の内面に向かう問いが後景に退いていく。何のために学ぶのか。自分はどのように生きるのか。苦しみや失敗に直面したとき、何によって立ち上がるのか。そうした問いは、学力や進学や成果の陰に押しやられやすくなる。
私が有尾類研究所という小さな研究拠点にこだわるのは、科学教育の制度をつくるためだけではない。戦後教育の中で見失われやすかった「人間は何のために学ぶのか」という問いを、もう一度、学校の中に取り戻すためである。
次章では、その原点として、私がなぜ有尾類との対話を重ねてきたのかをたどることにしたい。













