2016年、「相模原障害者施設殺傷事件」が起きました。植松聖死刑囚によって、知的障害者施設の入所者19人が殺害され、26人が負傷しました。死刑判決は2020年3月に確定していますが、2026年7月現在、刑は執行されていません。同年6月には、1月に申し立てられた2度目の再審請求が横浜地裁で棄却されたことが報じられており、弁護側はさらなる再審請求を検討しているとされています。植松死刑囚は、重度障害者を社会的・経済的な負担とみなし、その存在を消すことが社会の利益になるという考えを示し、排除の理由を正義感によって語っていました。
1.排除する側の内面にある論理
学校のような組織で人を排除する側の内面では、「この人がいると負担を感じる」「この人がいると自分の立場や自己像が揺らぐ」「この人がいると組織の秩序が乱れる」という感覚が先にあり、そこから「だからこの人には問題がある」「だからこの人はここにいるべきではない」という論理が組み立てられます。出発点にあるのは相手の能力や正しさではなく、「その人の存在を、自分や組織にとって耐え難いものと感じた」という感情です。
しかし、「この人がいると不安だから排除したい」とは、そのままでは言えません。そこでその感情は、客観的な判断であるかのように装われます。「能力が足りない」「協調性がない」「組織全体を考えていない」「周囲に負担をかけている」「特別扱いを求めている」「学校の方針に合わない」----こうした言葉によって、自分の不安や都合が、相手の欠陥へと翻訳されるのです。
2.「役に立たない人」と「正しすぎる人」が同じ扱いを受ける理由
知的障害のある人と、組織の中で正しさを主張する人は、一見まったく異なる存在に見えます。しかし排除する側から見れば、両者は「自分たちの都合に合わせて動かない存在」「管理しにくい存在」「負担を要求する存在」「秩序を乱す存在」という、同じカテゴリーに入れられます。
知的障害のある人は、支援や介助を必要とすることで「負担」とみなされます。一方、組織の慣行より原則を優先する人は、問いを発し、説明を求め、黙認されてきた矛盾を可視化することで、上司や同僚にとって心理的・制度的な「負担」となります。つまり排除される理由は、役に立たないからではなく、「自分たちにとって都合よく役立たない」からです。能力の高い人、外部から評価される人、倫理的に正しい行動を取る人ほど、かえって強く排除されることさえあります。その存在が、上司や組織の能力・正当性・道徳性を脅かすからです。「独善的」「特殊」「協調性がない」といったレッテルは、まさにこの評価のすり替えを表しています。
3.道徳的排除という構造
心理学では、こうした過程を「道徳的排除」として捉えることができます。私たちは通常、他者に対して「傷つけてはならない」「意見を聴かなければならない」「公正に扱わなければならない」「困っているなら支えなければならない」という道徳的義務を感じます。しかし、ある人を「迷惑な存在」「組織を乱す人」「理解不能な人」「支援しても意味のない人」と位置づけた瞬間、その人は通常の道徳が適用される範囲の外に置かれます。すると、「本人の話を聴かなくてもよい」「苦痛を想像しなくてもよい」「辞めるように仕向けても仕方がない」「排除することが組織のためになる」という判断が可能になってしまうのです。
心理学者アルバート・バンデューラは、人が有害な行為を行う際、道徳的正当化・責任の転嫁・結果の矮小化・被害者への非難や非人間化などによって、自らの道徳的抑制を解除すると論じました。この仕組みは大量虐殺のような極端な場面に限らず、日常的な組織行動の中にも働きます。学校であれば、「本人のためにも辞めた方がよい」「学校全体を守るためには仕方がない」「あの人が周囲を苦しめている」「管理職として当然の判断だ」といった言葉が、排除を「善意」や「責任ある経営」に変えてしまいます。これは単純な損得計算よりも恐ろしいことです。人は、悪いことをしていると思いながら排除するのではなく、正しいことをしていると思いながら排除できるからです。
4.有用性で人間の価値を測る危うさ
資本主義的な組織では、人間は生産性・成果・費用対効果・組織への貢献・管理の容易さ・代替可能性によって評価されやすくなります。そのため「どれだけ役に立つのか」「どれだけ費用がかかるのか」「どれだけ組織に利益をもたらすのか」という問いが、いつの間にか「その人は存在するに値するのか」という問いにすり替わる危険があります。
ナチスの障害者殺害政策では、障害者は遺伝的に「劣る」とされただけでなく、国家や社会に経済的負担を与える存在として宣伝されました。障害者一人を支える費用で「健康な国民」を何人養えるかという数字まで用いられ、殺害があたかも合理的な資源配分であるかのように示されたのです。資本主義が排除の唯一の原因というわけではありませんが、人間の価値を有用性へ還元し、排除を合理化する言語を提供してきたことは確かです。
ただし、民族的・宗教的・政治的な排除は、資本主義社会に限らず、さまざまな体制の下で起きてきました。より深い根には、「自分の安全や地位を守りたい」「自分の正しさを疑いたくない」「集団の秩序を維持したい」「複雑な問題の原因を誰か一人に負わせたい」「異質な存在を管理可能にしたい」という、人間と集団に共通する防衛本能があります。資本主義は、この防衛本能を「効率」「成果」「経営判断」という言葉で覆っているにすぎません。
5.極端な排除と、日常の排除の連続性
ホロコーストや障害者殺害と、職場で一人の教員を退職に追い込むことは、行為の規模・暴力性・法的道徳的責任において、決して同じではありません。しかし、そこへ至る論理の初期段階には共通点があります。「相手を個人として見なくなる」「一つの属性で相手全体を定義する」「相手を負担・脅威・障害物とみなす」「相手の声を聴く必要がないと考える」「排除を集団の利益として正当化する」----そして周囲が沈黙することで、排除が正常なものとして受け入れられていくのです。
集団暴力を研究したアーヴィン・スタウブは、困難な状況や集団間の対立がスケープゴート化や他集団の価値低下を生み、小さな差別や限定的な暴力の繰り返しが、より大きな破壊へとつながり得ると論じています。また、傍観者の沈黙がその進行を許すとも指摘しています。したがって、組織の性質を「大量虐殺と同じだ」と表現するのではなく、大量虐殺に至る極端な排除と日常の組織的排除は、人間を道徳的配慮の外へ押し出すという点で「同じ方向を向いている」と捉えるのが適切だと考えます。
6.存在を条件づけない、という原則
「社会的に正しいから存在していい」「役に立つから存在していい」という発想には、根本的な問題があります。「役に立つ人を守ろう」というだけでは、役に立たないと判断された人を再び切り捨てることになりますし、「正しい人を守ろう」というだけでも、今度は「誰が正しさを判定するのか」という新たな排除が始まってしまいます。
人間の存在は、「能力があるから」「成果を出したから」「正しいことを言ったから」「組織に貢献したから」「他者に迷惑をかけないから」という理由で承認されるものではありません。障害者権利条約が出発点に置いているのも、「社会への有用性」ではなく、すべての人が生まれながらに持つ固有の尊厳です。障害や差異を人間の多様性の一部として受け入れることが、その原則とされています。
根本原則をまとめると、次のようになります。人は正しいから存在を許されるのではありません。役に立つから存在を許されるのでもありません。人であることによって、すでに排除されずに存在する権利を持っているのです。
7.排除と、その反対の可能性
排除は人間の唯一の本質ではありません。人間には、自分の安全・地位・集団の秩序を守るために他者を負担や敵として排除する可能性がある一方で、他者の苦痛を想像し、権力に逆らい、排除される人をかくまい、不公正な制度を変える可能性も同じように備わっています。
より正確に言えば、人間には他者を排除する能力があり、しかもそれを正義として実行する能力があります。だからこそ、個人の善意だけに頼らず、人の存在を条件づけない制度をつくることが必要なのです。
8.学校という現場への示唆
生徒の科学研究を推進しなければならない、SSH指定を受けて間もない学校で、研究のできる教員が拒絶されるとすれば、それは単に嫉妬されるからではありません。その人が組織にとって管理しにくい存在、自己像を脅かす存在とみなされたとき、組織はその人の存在を条件付きのものに変え、道徳的配慮の外へ押し出そうとします。これが「存在を条件化する排除の構造」です。
科学課題研究を推進する教員が孤立しやすいのは、単に研究能力の低い同僚が嫉妬するからではありません。その教員の存在が、周囲の教員に、自分の能力の不足だけでなく、教師として生きられなかったかもしれない可能性まで見せてしまう----その脅威から自己像を守るために、実践者は「問題のある人物」へと置き換えられ、避けられていくことがあるのです。それを避けるには管理職のバックアップが必要です。













