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⑨ 学級通信「ぼうぼうどり」から授業「生命」 ― 生き方を問う教育の出発点 ―

1 関係から始まった教育
 私の教育実践は、一九八三年に清心女子高校に赴任し、最初の年に高校一年生の担任を持ったところから始まった。赴任した学校は、伝統ある、しつけの厳しいカトリックの女子校という印象であった。
 当時の高校現場には、いま振り返ると独特の緊張感が漂っていた。一九八〇年代は校内暴力といじめが社会問題化し、厳格な生徒指導が強く求められていた時代である。
 その時代の空気を示す資料として、一九八五年七月二十七日の読売新聞「婦人と生活」欄に掲載された「母親が作った高校ガイド」という記事がある。記事は、主婦三人が作成した『ハイスクールレポート'86』を紹介しており、そこでは学校概要や進路指導だけでなく、頭髪検査、服装検査、アルバイト、オートバイ、喫茶店、喫煙、政治活動、男女交際、生徒の妊娠への対応までが調べられていた。これは、当時の高校が、授業や進路だけでなく、生徒の放課後の行動、交友関係、身体、性に関わる問題にまで強い関心を向けていたことを示している。同時に、親の側にも、偏差値や大学進学実績だけでは、子どもがその学校で本当に生きていけるのか判断できないという不安が生まれていたのである。偏差値では見えない学校生活の実態が、親たちの手によって可視化され始めていた時代に、私は担任として、生徒に届く言葉を探していた。
 教師の側には、生徒を正しく導かなければならないという強い使命感があった。しかし、生徒の側から見れば、それはしばしば自分たちを押さえつけ、型にはめようとするものとして感じられていたのではないかと思う。私もまた、その時代の空気の中にどっぷりと浸かっていた。
 担任として、私は生活指導の場面で生徒たちと何度もぶつかった。こちらに、生徒を自分の信念で正そうとするほどの確かな考えがあったわけではない。着任したばかりの二十代の教員として、私は学校の生徒指導の方針に従うしかなかった。校則や生活指導の基準を守らせることが担任の役割だと受け止め、その通りに動こうとしていた。
 しかし、生徒たちには、それが「押しつけられている」という反発として受け止められたのだろう。若い担任なら、自分たちの気持ちを少しはわかってくれるのではないかという期待もあったのかもしれない。ところが、実際にはそうならなかった。その落差が、かえって彼女たちの不信感を強めたように思う。
 拒絶は激しく、互いの主張は完全に平行線をたどっていた。黒板に「○○死ね」とまで書かれたことがある。私自身も辛かった。いま思えば、教師と生徒のあいだに、信頼という土台が十分に成立していなかったのである。直接向き合って話し合い、互いに理解し合うような関係を、その時の私はまだつくることができなかった。
 何とかして、この冷え切った関係を変えたい。生徒と正面からぶつかるだけではなく、自分が何を考え、何を大切にし、なぜ語りかけているのかを、別の形で届けたい。口で言えば反発される言葉も、紙面にして渡せば、すぐには届かなくても、いつか読んでもらえるかもしれない。私は、直接の言葉ではうまく伝えられない自分の思いを、学級通信という形で生徒に渡そうとした。そこから始まったのが、学級通信「ぼうぼうどり」であった。
 「ぼうぼうどり」という名前は、この学校に来たとき、最初に生徒からつけられたあだ名である。赴任したばかりの頃、私は頭の毛が多く、髪が立ちやすかった。何とかしようとしてパーマをかけたことがあったが、それがかえって裏目に出て、髪はさらに総立ちになった。当時、日清食品から「棒棒鶏」という即席麺が出ていた。生徒たちはそれを「ぼうぼうどり」と読んで、私の髪の印象と重ねたのだと思う。
 教師としての私にとって、それは決して格好のよい名前ではなかった。生徒から見れば、からかい半分のあだ名であったのだろう。しかし、当時の私は、生徒との関係を何とか変えたいと思っていた。生活指導の場面でぶつかり、自分の言葉が届かず、教室の空気が冷えている中で、教師が自分の側から正しい言葉だけを投げかけても、生徒は受け取ってくれないのではないかと感じていた。
 それなら、生徒の側から投げ返された言葉を、こちらが受け止めるところから始めてもよいのではないか。そう考えて、私はそのあだ名を学級通信の名前として使うことにした。生徒がつけた名前を私自身が使えば、少しは距離が縮まるかもしれない。少なくとも、教師が自分を守るために生徒の言葉を拒むのではなく、生徒との関係をつくり直そうとしていることは伝わるかもしれないと思ったのである。
 こうして、学級通信「ぼうぼうどり」は始まった。立派な教育理念を掲げた題名ではなかった。むしろ、生徒との関係がうまくいかない中で、生徒の言葉を借りて、自分の言葉をもう一度届けようとした名前であった。
 初めて発行したのは、一九八三年七月十三日である。赴任して三か月ほど過ぎた頃、私は生徒との関係をうまく結べずにいた。生活指導の場面でぶつかるたびに、口で説明しようとしても、生徒には押しつけとして受け止められた。私自身も、学校の方針に従いながら担任として動いているだけで、生徒に自分の言葉で向き合えていたとは言えなかった。
 学級通信で伝えようとしたのは、生徒指導の内容を紙面で徹底することではなかった。まず、私自身がどのような人間であり、何を考え、何に迷い、何を大切にしているのかを、生徒に知ってもらいたかった。直接話そうとしても反発が先に立つなら、紙面を通して、私という人間の考えや感じ方を少しずつ渡してみようと思ったのである。そうすることで、私に向けられていた不信感が、少しでも薄れることを期待していた。
 そう思って、一号、二号を出した。しかし、生徒に届いたとは言えなかった。何日もかけて書いた通信が、教室のゴミ箱に捨てられていた。自分では一生懸命に書いたつもりだった。それでも、生徒にとっては、まだ受け取りたい言葉ではなかったのだと思う。
 その後、通信をしばらく書けなかった。しかし、心のどこかで、これで終わってよいのかという思いが残っていた。三学期になって、私はもう一度始めることにした。ただし、最初のように、自分の思いを理解してほしいと力を込めて書くだけでは続かない。捨てられてもよい。すぐに読まれなくてもよい。まず、自分自身が書き続けられるものにしようと思った。
 そのために、読んだ本、出会った詩、気になった新聞記事を、生徒に渡していくことにした。それは、生徒に何かを強く言い聞かせるためというより、私自身が何に心を動かされ、何を考えているのかを、少しずつ知ってもらうためであった。直接の言葉では届かないものも、紙面に残しておけば、いつか誰かの目に触れるかもしれない。そう考えて、学級通信の性格を少しずつ変えながら、書き続けていった。
 一九八四年度には、年間二百号を発行した。振り返れば、着任した年に始めたこの学級通信こそが、私の三十年を超える教育実践の原点であった。
 読まれず、捨てられてもなお書き続ける中で、私は、生徒に「読ませる」のではなく、「読んでくれるまで待つ」ことを覚えた。教師が言葉を発した瞬間に、生徒が理解し、態度を変えるわけではない。人間が何かを受け取るには、その人自身の時間が必要であり、教師にできるのは、考える材料を渡し、その言葉が相手の内側で熟す時間を奪わないことだと知ったのである。

2 学級通信は「生き方」を問う場になった
 私は、学級通信を、感想文を書かせるための教材にはしたくなかった。学校で教材として新聞記事や本の抜粋などの資料を生徒に渡すと、通常の授業であれ、人権教育であれ、性教育であれ、多くの場合、まとめや感想を求めることになる。すると、生徒の方はどうしても「やらされる」という負担感を持つ。私は、読んだことをその場でまとめさせたり、何らかの成果に結びつけたりしなくてもよい、いわば"使い捨て"の考える材料として、詩や新聞記事や本の抜粋を渡したかった。人の感受性や考え方の多くは、教師の一過性の説教やホームルームだけでつくられるものではない。意識されないまま過ごした時間、学校全体を流れる雰囲気、ふと読んだ一つの文章によって、少しずつ形づくられていく。学級通信は、すぐに感想や成果を求めず、生徒の学校生活の中に置いておくための考える材料であった。
 学級通信で扱った内容には、学校の日常連絡や担任としての雑感もあった。しかし、中心になっていたのは、本や新聞記事の中から、生徒たちに考えてほしい題材を探し出し、それを紹介することであった。当時の私は、毎日のように図書館へ通い、新聞や書籍の中から記事を探していた。どのような話題なら、彼女たちが自分の問題として考えられるのか。単なる道徳的な説教に陥らず、しかし生徒の生き方に関わる問いをどう提示できるのか。そのことに知恵を絞りながら記事を選び、ときにはその題材をロングホームルームや終礼に持ち込み、生徒たちと話し合うこともあった。そのテーマには、性、人間関係、結婚、家族、学校生活、そして社会問題などがあった。
 たとえば、私がLHRで取り上げた題材の一つに、一九八〇年代初めに報道された、高校生と男性教員の結婚をめぐる新聞記事があった。ある高校教師が、在学中の女子高校生と婚約し、彼女が高校を卒業した直後に結婚した。その後、子どもが生まれた四か月後に、教師が教育委員会から停職三か月の処分を受けたという事例である。
 私はこの記事を、教師と生徒の恋愛を興味本位に扱うために取り上げたのではない。当時の法制度の下で、高校生は結婚できる年齢にあった。では、卒業後であっても、学校や教育委員会はどこまでその人の人生に関与できるのか。女子高校生は、自分の意思で人生を選び取る人格として見られているのか。それとも、保護の名のもとに管理される対象として扱われるのか。さらに、教師と生徒の関係には、権力差や責任の問題もある。本人たちの意思、保護者の判断、学校の規律、教育委員会の処分、社会の視線が重なり合う事例として、生徒たちと一緒に考えたかった。
 性や恋愛、家族、そして将来の生き方に深く関わる葛藤は、彼女たちの関心を強く引きつけた。教師が一方的に「こうすべきだ」と正論を語るよりも、現実の社会で起きている出来事を媒介にして、「あなたはどう考えるか」と問いかける。そのような対話の入り口が、少しずつ形を成していった。
 この時点で、私は自分の実践を性教育として整理していたわけではない。しかし、学級通信やLHRで取り上げていたのは、身体の知識だけではなく、恋愛、結婚、家族、教師と生徒の関係、女性が自分の人生をどのように選ぶのかという問題であった。後に性教育の中で考えることになる課題は、すでにこの時期の実践に現れていた。
 私は、生徒との関係を何とか変えたいと思って学級通信を書き始めた。しかし、書き続けるうちに、教師が正しい答えを示すことよりも、生徒が自分の身体や人間関係、将来について考える材料を渡すことの方が大切ではないかと考えるようになった。学級通信は、私の考えを理解してもらうための通信から、生徒が自分の生き方を考えるための材料へと変わっていった。

3 性教育が「生命」の問いへ広がる
 一九九九年度に発展科目として開講した授業「生命」の根には、一九八〇年代から女子校の現場で続けてきた性教育の実践があった。私にとって性教育は、保健知識を伝え、危険を避けさせるための指導にとどまるものではなかった。女子生徒が、自分の身体を知り、自分の人生を他者任せにせず、自分の問題として考えるための教育であった。
 私が一九八〇年代のLHRで生徒に読ませた資料の一つに、「女性が自分の体のことを知っていたら」という新聞記事があった。記事は、富士見産婦人科病院事件を背景にしたものであった。富士見産婦人科病院事件では、医療機関を信頼して受診した女性たちが、手術の必要性や身体への影響について十分な説明を受けないまま、子宮や卵巣を摘出する手術を受けていたことが問題になった。
 病気だと言われ、手術が必要だと言われれば、多くの患者は専門家である医師の判断に従わざるを得ない。まして、子宮や卵巣、月経、ホルモンの働きについて、女性自身が十分に学ぶ機会を持たされていなかった時代である。専門家の言葉を前にして、自分の身体について問い返すことは容易ではなかった。
 もちろん、この事件の責任は、被害を受けた女性たちにあったのではない。第一に問われるべきは、医療の側の不正であり、患者の身体と人生を軽く扱った医療機関の責任である。しかし、記事の中で女性たちが語っていた後悔は、医学の専門家による不正や過誤の問題だけでは終わらなかった。自分の子宮や卵巣、月経、ホルモンの働きについて十分に知らされてこなかったこと、医師の言葉を疑い、自分の身体について判断するための材料を持てなかったことへの深い悔しさが、そこにはあった。
 私はこの記事を、女子生徒に恐怖を与えるために読ませたのではない。自分の身体について知らないままでいることが、医師や家族や社会の判断に、自分の人生を委ねてしまうことにつながる。そのことを考えてほしかったのである。性教育は、危険を避けさせるための注意から始まる。しかし、それだけでは終わらない。自分の身体について知り、専門家の言葉を理解し、必要なときには問い返し、自分で判断する材料を持つための教育でもある。女子校で性教育を行う意味を、私はそこに見いだしていた。
 このような問題意識が、実践の中で自覚的な形をとる大きな転機となったのが、一九八六年八月二十五日の日本性教育学会での実践報告であった。私は、第4部会で「高等学校での性教育の実践と問題点・ホームルーム担任として」という演題で発表した。
 この要旨の中で、私は、清心女子高等学校の性教育が「人間教育の一環」として始められたことを確認したうえで、ホームルーム担任として見えてきた問題を述べている。とくに私が重く受け止めていたのは、当時の女子生徒に自分の人生設計を書かせると、その多くが二十二、三歳までで止まり、結婚を人生の最終目標とし、その後の人生が相手次第で決まるように書かれていたことであった。
 一九八〇年代半ばの日本では、結婚後に仕事を離れる女性はまだ多かった。一九八六年には、夫が雇用者で妻が働いていない、いわゆる専業主婦世帯が九五二万世帯あり、共働き世帯の七二〇万世帯を大きく上回っていた。また、一九八五年の二五〜二九歳女性の労働力率を見ると、未婚女性は八八・五%であったのに対し、有配偶女性は三八・〇%にとどまっていた。女子生徒が、結婚後の人生を夫の職業や家庭のあり方に委ねるものとして描いた背景には、このような時代状況もあった。
 しかし、この問題は、一九八〇年代の記憶として終わったわけではなかった。後に二〇〇六年度から生命科学コースを立ち上げ、授業「生命」を教育課程の中に置いた後にも、同じような場面に出会った。生命科学コースの生徒に、将来は何を目指すのかと尋ねたとき、医師や科学者ではなく、「専業主婦」と答えた生徒がいた。その時に受けた衝撃を、私は今でも覚えている。生命科学を学ぶ場にいても、女子生徒が自分の将来を、職業や研究や社会参加の言葉ではなく、結婚後の家庭の中で描くことがある。そのことに、私は、性別役割の意識の根深さを感じた。
 私が問題にしたかったのは、生徒が専業主婦になることを望むこと自体ではなかった。結婚後の自分の人生を、自分の言葉でどこまで描けるのかという問題であった。私は、それを生徒個人の意識の問題としてだけ見るのではなく、その意識を育ててきた教師や親の生き方、さらに、そうした生き方しか認めにくい社会の問題として捉え直す必要があると考えていた。

4 山本直英から学んだ性教育の思想
 私が性教育の実践に取り組むうえで、大きなきっかけを与えてくれた人物がいる。山本直英である。
 山本氏は、当時の学校教育の中で、性教育を正面から語ろうとした数少ない教育者であった。性を語ること自体が、学校教育の中で警戒され、誤解されやすい時代である。その中で山本氏は、外部の専門家を呼んで講演を聞かせるだけで性教育ができるとは考えていなかった。日常的に子どもたちと接している教師こそが、子どもの名前や表情や生活を知ったうえで、性について語りかける責任があると考えていた。私が山本氏から強く受け取ったのは、性教育を特別な講演や行事に閉じ込めず、教師の日常の言葉として引き受ける姿勢であった。
 吉祥女子中学・高校で行われた山本直英先生の性教育公開授業を紹介する一九八〇年代の新聞記事には、山本先生が「性交」を扱う授業で、独自に考案した「状況による性交の評定表」を用い、結婚、恋愛、快楽、世間の評価など、複数の状況を生徒に考えさせたことが記されている。教師が結論を与える授業ではなかった。生徒が自分の価値観を確かめ、他者の考えに触れながら、性を人間の生き方の問題として考える授業であった。
 山本氏から私が学んだもっとも大きなことは、性教育は「下半身」だけの問題ではない、ということであった。人間は、上半身と下半身を切り離して生きているのではない。知性も、感情も、身体も、欲望も、関係性も、すべてを含んで一人の人間である。性器について語ることを避ければ、性教育は成り立たない。しかし、性器だけを取り出して語っても、人間を語ったことにはならない。性教育とは、身体をもつ人間を、全体としてどう受け止めるかという教育なのだと、私は山本直英から学ばせていただいた。
 山本氏とは、亡くなられる直前まで交流があった。私に対して、私の生物学の知識を基盤にした性教育の本を書いてみてはどうか、という話をしてくださったこともある。確かに、私にはその道もあったのだと思う。生物の教師として、身体、発生、生殖、生命の連続性を科学的に語り、それを性教育に接続する仕事である。
 しかし、その時期、私はイモリの研究で大学院の修士課程に進み、学校を休職して学んでいた。山本氏が亡くなったとき、私は性教育の本を書く道ではなく、イモリの研究を進捗させることを選んでいた。
 その選択は、性教育を捨てることではなかった。性を身体と人権の問題として考え、生命を生殖、発生、成長、世代の連続として見るという山本直英氏から学んだ視点を、生物学の研究と学校教育の中で確かめ直す道であった。イモリの研究は、私にとって、性教育から離れる道ではなく、生命を科学として見直す道でもあった。
 山本直英氏は、イモリの研究者でもあった山本宣治を深く敬愛していた。その山本直英氏が、自らの墓を山本宣治の墓のある宇治に建てたことは、私にとって印象深い事実である。
 山本宣治は、生物学者であると同時に、性をタブー視する社会の中で、性教育と産児調節を科学の言葉で語ろうとした人物であった。彼にとって性を語ることは、知識を広めるだけの仕事ではなかった。女性の身体や妊娠、出産が、家制度や世間の規範によって一方的に決められてよいのかを問うことであり、人間が自分の身体と生き方を自分のものとして考えるための実践であった。
 だからこそ、生命を受精の一瞬だけで定義することにも、私は慎重でなければならないと考えてきた。受精卵は、生きた細胞であり、新しい発生過程の出発点である。精子と卵が出会い、発生が始まることは、生命の連続を考えるうえで大きな出来事である。しかし、そのことと、受精の瞬間から出生後の人間と同じ倫理的・法的保護を与えるべきだという考えは、同じではない。
 妊娠中絶をめぐる議論では、「生命は受精から始まる」という言葉が、女性の自己決定を制限し、中絶を禁止する主張の根拠として用いられてきた。そこでは、胎児の生命が強く語られる一方で、妊娠している女性の身体、健康、生活、人生が見えにくくなることがある。性教育で生命を語るとき、この点は避けて通れない。生命を尊重することは、受精卵だけを見ることではなく、妊娠する身体をもつ人間の尊厳と自己決定を同時に考えることでもある。
 生命をどの段階から、どのように保護するのかについては、いくつもの考え方がある。受精を重く見る考え方があり、胚自身の遺伝子が働き始める段階を重く見る考え方があり、胎外で生存できる段階や、痛みを感じる神経系の発達を重く見る考え方もある。これは、後に私が考えることになる動物実験の倫理ともつながっている。生命を扱う教育には、生物学的な発生の知識と、その生命にどのような配慮を向けるのかを判断する倫理の両方が必要になる。

5 必要とされながら批判された性教育
 性教育は、生徒を危険から守るために必要とされてきた。望まない妊娠、性感染症、性暴力について、正確な知識を伝えることは欠かせない。しかし、私が取り組んできた性教育は、危険を避けるための注意だけで終わるものではなかった。人間が自分の身体をどう受け止め、他者とどのように関わり、どのように生きるのかを考える教育でもあった。
 性教育の必要性そのものは、学校現場でも広く認められていた。山口県養護教員会の二〇〇二年の調査では、「性教育を積極的に進める必要がある」と答えた教員は、小学校で九八・八%、中学校で九〇・一%、高校で八三・五%に達していた。岡山県性教育協議会の一九九三年の調査でも九七%、本校の一九九六年の調査でも九六%が、性教育の必要性を認めていた。多くの教員は、性教育を不要なものだと考えていたわけではない。
 それでも、性教育は進めにくかった。性教育に何を求めるのかが、教師によって違っていたからである。生徒に自分を大切にしてほしいと考える教師もいれば、性道徳の低下を心配する教師もいた。生徒一人ひとりの幸福を考えるのか、学校や社会の秩序を守ることを重く見るのか。その違いが、性教育を必要だと認めながらも、具体的な内容になると意見が分かれる原因になっていた。
 一九九〇年代には、エイズが社会的な問題となり、学校現場でも性教育の必要性が強く語られた。とくに一九九二年には、エイズ感染予防対策の一環として、全国の高校生に『AIDS 正しい理解のために』が配布され、教師向けの指導資料も用意された。高校生に対しても、性感染症や避妊について具体的に扱う必要があるという認識が、学校現場に広がった時期であった。
 この流れは、エイズ教育にとどまらなかった。一九九四年のカイロ国際人口会議では、リプロダクティブ・ヘルス/ライツという考え方が国際的に提起され、一九九五年の北京世界女性会議では、女性の地位向上のための行動綱領が採択された。日本でも、一九九六年に優生保護法が母体保護法へ改正され、一九九九年には男女共同参画社会基本法が公布・施行された。同じ一九九九年には低用量ピルの承認もあり、女性の身体、妊娠、避妊、自己決定をめぐる問題が、社会の中であらためて問われるようになっていた。
 同じ年、文部省からは『学校における性教育の考え方、進め方』が発行され、学校、家庭、地域が実態に応じて性教育を組織的、体系的に展開する必要が示された。性教育は、思春期の性行動を抑える指導から、人権、自己決定、ジェンダー平等を含む教育課題へ広がろうとしていた。
 しかし、学校現場の空気がすぐに変わったわけではなかった。学校教育は長い間、集団の規律や画一性を重視する仕組みの中で動いてきた。多くの生徒を一斉に指導するには、集団を管理し、秩序を保つことが必要だと考えられてきた。一九八〇年前後には校内暴力が社会問題となり、生活検査や厳格な生徒指導によって学校の秩序を保とうとする空気も強かった。性に関わる問題も、そのような生徒指導の延長で扱われやすかった。
 性教育をめぐる対立は、この学校文化と切り離せない。日本では、旧来の性別役割分業の考え方が根強く、性行動についても「女子高生の性の乱れ」という言葉に見られるように、女性の性ばかりが好奇や管理の対象にされやすかった。中絶や望まない妊娠についても、「傷つくのは女だけだ」と語られるように、男女で非対称な意識が残っていた。女子生徒に必要なのは、ただ危険から守られることだけではなかった。自分の身体と人生を、自分のものとして考える力であった。
 その一方で、性教育が具体的な知識に踏み込むと、強い批判が起こった。二〇〇二年には、全国の中学生に配布する予定であった『思春期のためのラブ&ボディBOOK』が、配布直前になって批判を受け、中止された。二〇〇三年には、東京都立七生養護学校での性教育実践が「不適切」と判断され、教職員が処分される事件も起こった。性教育は必要だと認められながら、避妊、身体、性行動、自己決定に踏み込むと、「行き過ぎた性教育」として攻撃される。この矛盾の中で、学校の性教育は揺れ続けてきた。
 日本で「行き過ぎた性教育」と批判されるとき、しばしば問題にされるのは、性器、避妊、コンドーム、性交といった具体的な知識を、どの年齢の生徒に、どのように教えるかという点である。もちろん、性に関する知識は、年齢や発達段階を考えて扱わなければならない。しかし、その配慮は、子どもたちが現実に出会っている身体や性、関係の問題を、学校が見ない理由にはならない。社会が変わり、生徒が接する情報や人間関係も変わっている以上、教育内容も伝え方も変わらなければならない。
 さらに、二〇〇〇年代以降、性教育をめぐる学校現場の切迫感そのものも少しずつ変化していった。背景には、「行き過ぎた性教育」への批判だけでなく、青少年の性行動そのものの変化もあった。日本性教育協会の調査では、二〇〇五年以降、高校生の性交経験率は低下傾向にある。かつては、インターネットや携帯電話が普及すれば、性情報への接触が増え、高校生の性行動はさらに活発になるのではないかと考えられた。しかし現実には、性情報への接触の増加が、そのまま現実の交際や性交経験動の増加につながったわけではなかった。
 たしかに、従来の学校が性教育の課題として意識してきた、望まない妊娠や性感染症、身体接触を伴う性行動という問題は、以前より目立ちにくくなっている。高校生の性交経験率が低下していることも、その変化を示している。しかし、だからといって、子どもたちが性から遠ざかったわけではない。身体接触を伴う性行動は減少しても、インターネット、SNS、写真や動画、匿名的なやり取りを通して、子どもたちは別の形で性に接するようになった。性の問題は、妊娠や性感染症として学校が把握しやすい形で現れるだけではなくなった。性的な写真や動画をどう扱うのか、匿名の相手とどう関わるのか、同意や拒否をどう伝えるのか、自分の身体をどう見られ、どう受け止めるのかという問題として、以前より見えにくい形をとるようになった。だからこそ、性教育は、妊娠や性感染症を防ぐ知識を伝えるだけでなく、生徒が自分の身体を理解し、他者との関係を考え、必要なときには同意や拒否を言葉にしながら、自分の生き方を自分で考えるための教育でなければならない。
 具体的な知識を避けることによって、性教育が管理の言葉に変わってしまう危険は、アメリカで進められてきた禁欲教育の議論にも表れている。結婚まで性交渉を避けることだけを強調し、避妊や性感染症予防についての基本的な情報を十分に扱わない教育は、子どもがその事態に直面したときに、自分の身体を守るための判断材料を奪ってしまう。禁欲という選択を伝えることと、禁欲だけを価値ある選択として示すことは同じではない。
 科学的に不正確な情報や、性別役割についての固定的な見方を含んだまま性行動を抑えようとすれば、それは教育ではなく統制に近づいてしまう。避妊の有効性を軽く扱ったり、結婚までの禁欲だけを正しい道として示したりすれば、性的虐待を受けた生徒や、同性を好きになる生徒、自分の身体や性について不安を抱える生徒を、教育の場から遠ざけてしまう危険がある。
 性教育の必要性は認められていても、学校の表向きの場面では、性に関わる具体的な知識や言葉を子どもたちから遠ざけようとする反応が根強く残っている。避妊、性交、性器、妊娠、同性愛、性被害といった言葉は、教育の中で扱うべき問題であるにもかかわらず、まず避けるべきものとして受け止められやすい。教師の側にも、性に関わる問題には深入りしない方がよいという判断が働きやすい。学校教育の中でさえ、性が、生徒の身体や人権を守るために語られ、教育研究のテーマとして語られるものだとは、十分に想定されていないのが現実である。
 日本性教育協会が出版した、私の性教育実践に関する論文が学校に届いたときのことである。事務所の職員が、その本をいかがわしいものではないかと判断し、私の部屋まで確認に来たことがあった。もちろん、それは性を消費の対象として扱う本ではなく、学級通信から授業「生命」、女子生徒の理系進学支援へと続く、三十年の教育実践をまとめた論文を含む書籍であった。
 その出来事は、私にとって小さな笑い話では済まなかった。問題は、職員個人の誤解にあったのではない。「性教育」という言葉が目に入った瞬間に、そこに書かれている内容を読む前に、まず警戒する反応が学校の中に残っていることだった。性教育の研究書であるのか、教育実践の記録であるのか、身体と人権をめぐる学びであるのかを確かめる前に、性という語そのものが危険なものとして処理される。その反応に、私は、山本宣治が性を科学の言葉で語ろうとして命を奪われ、山本直英が学校で性を語ることによって批判を受けた時代の名残を感じた。
 性という言葉に反応したのは、その職員だけではなかった。時代が進み、文章を読んで判断する相手が人間ではなく人工知能になっても、似た反応は起こる。現代の人工知能には、安全のために危険な内容を検出する仕組みが組み込まれている。しかし、その仕組みは、教育研究として語っているのか、人権や公衆衛生の問題として語っているのかを十分に判断する前に、入力された文章の表面に現れる性教育関連の語句や、その出現頻度に反応し、警告を出してくる場合がある。
 性教育の歴史、リプロダクティブ・ヘルス、人権、女子生徒の進路意識について論じているだけであっても、「性交」「避妊」「性行動」「同性愛」「性被害」といった語が近くに現れると、入力そのものに警告を出し、回答を止める場合がある。文脈を読めば教育研究として扱うべき内容であっても、表面に現れた語だけで危険な内容として処理されてしまうのである。
 私はそこに、現代の学校教育にも残る問題を見る。学校も人工知能も、文脈を読めないとき、語だけで危険を判断してしまう。抽象的に「生命の尊重」や「人権」を語る限りでは、性教育は受け入れられやすい。しかし、避妊、性交、性器、妊娠、性被害、同性愛、自己決定といった具体的な問題に踏み込むと、とたんに警戒される。けれども、具体を避けた性教育は、生徒が現実に直面する問題に届かない。文脈を読まず、語だけで危険を判定する反応は、生徒の身体と人生を考える教育を、無難な言葉の中へ閉じ込めてしまう。
 性教育をめぐる批判の中で、私が考え続けてきたのは、何を教えるかだけではなかった。性を、生徒を管理するための言葉にするのか。それとも、生徒が自分の身体と人生を考えるための言葉にするのか。その違いであった。性教育は、危険を防ぐための知識を伝えると同時に、生徒が自分自身を大切にし、他者とどう関わるのかを考える教育でなければならない。
 この問題は、性教育にとどまらない。生徒同士の関係も、生徒と教師の関係も、以前とは違う距離を持つようになった。学校は、生徒の生活や人間関係に深く関わることによって、保護者からの批判や予期しない問題を引き受けることを恐れるようになっている。無難に済ませること、責任を問われないようにすること、深入りしないことが、いつのまにか学校の安全な運営のように考えられる場面も増えている。早く帰宅させる。余計な関係をつくらない。生徒と教師の距離を近づけすぎない。そのような判断は、一つひとつは危機管理のように見える。しかし、それが積み重なると、生徒の問いや迷いに教師が付き合う時間そのものが失われていく。
 人間関係が希薄になる時代だからこそ、生徒に伴走する教育は必要になる。教師が生徒の問いや迷いに付き合えなければ、教育は課題を与え、成果を評価するだけのものになる。性教育で見えてきたこの問題は、後に私が生命科学コースや有尾類研究所で取り組むことになる科学研究指導にもつながっていた。研究指導もまた、生徒の問いに深入りし、不確かな過程に付き合い、すぐには成果にならない時間をともに引き受ける営みだからである。

6 生物教師としての性教育――生命を科学として見る
 私が生物教師であったことも、性教育を授業「生命」へ広げるうえで重要であった。授業「生命」では、生命の尊厳を道徳や感動の言葉だけで扱うのではなく、受精、発生、成長、生殖、老い、死という、生物の体の中で起こる具体的な生命現象に即して考えさせたいと思っていた。
 だからこそ、生物教師としての私は、性教育を自然科学の基礎の上に置くことを重視した。たとえば、生命の誕生を語るとき、「一つの卵に一つの精子が入り、そこから命が始まる」と説明されることがある。確かに、ヒトやカエル、ウニなどでは、発生に関わる精子は基本的に一つである。しかし、それをすべての生物に共通する受精の姿として語ることはできない。イモリを含む有尾類や、鳥類、爬虫類では、複数の精子が卵内に侵入する多精受精が起こる。ただし、発生に関わる精子核は最終的には一つであり、他の精子は発生には用いられない。受精の仕組みは種によって異なり、その多様性の中に、それぞれの生殖戦略と進化の歴史がある。
 また、生命を受精の一瞬だけで定義することにも、慎重でなければならない。受精卵は、生きた細胞であり、新しい発生過程の出発点である。精子と卵が出会い、新しい発生が始まることは、生命の連続を考えるうえで大きな出来事である。しかし、そのことと、受精の瞬間から出生後の人間と同じ倫理的・法的保護を与えるべきだという考えは、同じではない。
 妊娠中絶をめぐる議論では、「生命は受精から始まる」という言葉が、女性の自己決定を制限し、中絶を禁止する主張の根拠として用いられてきた。そこでは、胎児の生命が強く語られる一方で、妊娠している女性の身体、健康、生活、人生が見えにくくなることがある。性教育で生命を語るとき、この点は避けて通れない。生命を尊重することは、受精卵だけを見ることではなく、妊娠する身体をもつ人間の尊厳と自己決定を同時に考えることでもある。
 生命をどの段階から、どのように保護するのかについては、いくつもの考え方がある。受精を重く見る考え方があり、胚自身の遺伝子が働き始める段階を重く見る考え方があり、胎外で生存できる段階や、痛みを感じる神経系の発達を重く見る考え方もある。動物実験の倫理でも、受精の瞬間だけで判断するのではなく、発生段階、神経系の発達、苦痛を感じる可能性、自立して生きる段階などが問題になる。
 生徒たちが発生の過程を観察することは、命を抽象的な概念としてではなく、時間の中で変化し続ける現象と有尾類は、卵、発生、幼生、変態、生殖、再生の過程を観察できる生き物である。私にとって、イモリやサンショウウオの繁殖、受精、発生、成長を観察することは、性教育から離れることではなかった。性を身体と人権の問題として考えてきた経験を、生命現象そのものの観察と研究の中で確かめ直すことであった。前者が「人間はどう生きるか」を問う教育であるなら、後者は「生命はどのように続いていくのか」を観察する科学であった。両者の根底には、生命を固定された概念としてではなく、発生し、変化し、関係の中で続いていくものとして見る姿勢がある。

7 生徒会顧問という転機――関係から組織へ
 若い頃の私は、生徒の前に立って、その場で言葉を返しながら関係をつくっていくことが得意ではなかった。学校では、生徒の前で強く語る時間よりも、生物準備室にこもって過ごす時間の方が、私には平穏であった。授業の準備のために資料に目を通し、専門書を読み、LHRで使う資料をコツコツとつくり、生物の世話をしながら毎日を過ごす時間は楽しかった。
 人と接することが苦手な人間が教員に向いているのか、自分でも疑問に思うことがあった。しかし、その不器用さが、後に私の教育の方法にも反映していった。生徒の前で瞬時に場をまとめることは得意ではなかった。だからこそ、新聞記事を探し、本を読み、資料をつくり、紙面に言葉を残すことに向かった。担任として生徒との関係をうまく結べず、学級通信にすがるようにして書き始めたのも、その不器用さがあったからである。
 その私に生徒会顧問の話が来たとき、正直に言えば、引き受けたいとは思わなかった。生徒会は、学級通信のように、一人で書き続ければよいものではない。各委員会の生徒が活動できるように支え、教員との間を調整し、文化祭や体育祭などの学校行事を運営し、生徒自身が学校を動かしていく活動を、教員組織との間に立って支えなければならない。人間関係を不得手だと感じていた私にとって、それは避けたい役割であった。
 ところが、生徒会顧問を命じられたことに愚痴をこぼしていた私に、先輩教員が厳しく言った。「自分の好みや得意不得意だけで、生徒にとって重要な教育活動を拒むのは間違っている。それに、君が嫌がった仕事を、後で引き受けることになる教員がどんな気持ちになるか、考えたことがあるか」。
 私は、その言葉をすぐには受け入れられなかった。生徒会顧問は、自分には向いていないと思っていたからである。しかし、時間がたつうちに、自分が避けようとしているのは生徒会活動そのものではなく、人と関わることへの苦手意識を理由に、学校の中で果たすべき役割から逃れようとしていることではないかと思うようになった。
 それでも、経験したことのない役割を、そのまま引き受けることはできなかった。中途半端な気持ちで生徒会顧問になれば、生徒にも迷惑をかける。そこで私は、校長に一年間の準備期間を願い出た。その一年の間に、生徒会とは何をする場なのか、学校の中で生徒が自分たちの意見を形にするには何が必要なのかを考えた。そして、翌年、生徒会顧問を引き受けることにした。
 生徒会顧問になってから、担任したクラスの生徒にも、生徒会役員に立候補するよう働きかけた。生徒会を、教員の指示で行事をこなす組織にしたくなかった。生徒自身が学校のあり方を考え、会則や行事の運営を見直し、自分たちの手で学校を少しずつ変えていく場にしたかったのである。
 まず、生徒会会則の全面改訂に着手した。生徒は生徒手帳をいつも携帯していたが、そこに掲載されている生徒会会則をきちんと読んだことのある生徒は、ごく一部であった。教員もまた、生徒会行事や学校行事を運営していながら、会則にどのような条項があるのかを意識することはほとんどなかった。会則は、いつ作成されたのかもはっきりしない古いものであり、問題視されることもなく、そのまま使われていた。
 内容を読んでみると、それは生徒が主体的に活動するための規定というより、教員が生徒会役員に指示し、生徒がそれに従って動くことを前提にしたものに見えた。生徒会という名前はあっても、生徒が自分たちで話し合い、学校生活や行事をつくっていくための民主的な仕組みとしては、十分に整っていなかったのである。
 担当になってすぐ、私は岡山県内の高等学校の生徒会に依頼し、各校の生徒手帳を送ってもらった。生徒会役員と一緒にそれを読み比べ、他校の生徒会会則には何が書かれているのか、自分たちの学校の会則には何があり、何が欠けているのかを調べた。その作業を通して、生徒たちは、会則が単なる形式ではなく、自分たちの活動の根拠になるものであることに気づいていった。生徒手帳に掲載されていた会則を全面的に改訂しようとしたのは、そのような作業の延長にあった。
 会則の改訂では、条文を直すだけでなく、前文を付けることにした。清心女子高等学校の校訓である「心を清くし、愛の人であれ」を受けながら、生徒が自らよりよき学園生活を建設し、各自の個性を伸ばし、情操を養い、教養を高めるために生徒会を組織することを明記した。さらに、生徒相互の理解のもとに、生徒の意見を反映した、未来に向かう創造的な学校生活をつくる礎として、生徒会をつくりあげることを前文に掲げた。
 この前文については、管理職から、教師に対抗的に読めるのではないかという意見も出された。確かに、「生徒の意見を反映した学校生活をつくる」という言葉は、教員が決め、生徒が従うという従来の生徒会観から見れば、強い表現に見えたのだと思う。しかし、私が目指していたのは、教師に対抗する生徒会ではなかった。生徒が、自分たちの学校生活を自分たちの問題として考え、教員と向き合いながら、よりよい学校をつくるために意見を出せる生徒会であった。
 文化祭の運営も、大きな改革であった。多くの学校では校内行事として行われていた文化祭を、休日に一般公開で開催し、保護者だけでなく、生徒が招待したチケットを持った一般の人も入場できるイベントとして開催した。さらに、バザーなどの収益を生徒の売り上げを文化祭の経費や生徒の活動に生かす仕組みも整えていった。文化祭を、教員の意向だけで管理する行事ではなく、生徒会が企画し、多くの生徒が運営に参加し、地域や保護者にも開いていく行事へ変えようとしたのである。
 もちろん、すべてが順調に進んだわけではない。生徒会役員の意見だけで学校の制度を変えられるわけではなく、教員との調整や、校内での合意形成が必要であった。会則を改訂することも、文化祭の運営方法を変えることも、学校全体の理解なしには進められなかった。
 それでも、生徒たちは、自分たちの学校を、ただ規則に従って過ごす場所としてではなく、自分たちもそのあり方を考え、変えていくことのできる場所として受け止め始めていた。私はその姿を見ながら、学校は、生徒が与えられた制度に適応するだけの場所ではなく、自分たちがここにいてよいと思える場所へ変えていくこともできるのだと感じた。
 生徒会顧問の経験によって、私は、教師と生徒との信頼関係だけでなく、生徒が自分の意見を仲間と話し合い、会則や学校行事の運営方法を実際に変えていく場が必要だと知った。学級通信で渡してきた材料や、性教育を通して生まれた考えは、生徒会会則の改訂や文化祭の公開という行動へつながっていった。ここでの経験が、後に学校改革アンケートをまとめ、授業「生命」を教育課程に置き、生命科学コースとSSHを構想するときの基礎になった。

8 一人一、二ページをつないで一冊にする――エイズの本の共同翻訳
 生徒会顧問として、生徒が共同で学校行事を動かす経験をしたことは、授業のあり方にも影響を与えた。教師が知識を一方的に伝えるのではなく、生徒一人ひとりが自分の役割を引き受け、その作業をつなぎ合わせることで、一人ではできない成果をつくることができるのではないかと考えるようになった。
 一九九一年度から一九九五年度まで、私は生徒会顧問の中心的な立場にあった。その時期に担任したクラスには、前向きに自分たちで考え、動こうとする生徒たちがいた。一九九〇年の文化祭で社会問題を扱う冊子を作ったのも、教師から与えられた課題としてではなく、生徒たち自身が考えた企画として始まったものである。
 生徒たちは、自分たちが関心を持った社会問題について調べ、それぞれの意見を持ち、仲間と分担しながら一冊の本としてまとめていった。クラスを六つのグループに分け、六月からテーマを決め、資料を集め、夏休みに原稿を書き、ワープロで入力し、製本した。取り上げたテーマは、臓器移植、これからの女性のライフスタイル、音楽の始まり、校則、エイズ、医療事情、認知症などであった。最終的には、一二二ページの本が完成した。
 この経験は、私にとって大きかった。生徒たちは、社会の問題を自分たちの問題として受け止め、資料を集め、読み、考え、文章にし、共同で一つの成果物にしていくことができた。その手応えがあったからこそ、一九九二年度には、高校三年生の生物の授業で、三クラス約百人の生徒全員で英語の本の翻訳に挑戦してみようと考えたのである。
 教材に選んだのは、エイズと性感染症の予防を扱った『SAFER SEX――WHAT YOU CAN DO TO AVOID AIDS』という約百五十ページのペーパーバックであった。この本は、ニュージーランド語学に生徒を引率した英語の先生が私へのプレゼントとして現地で購入し、持ち帰ってくれたものであった。また、オーストラリアに留学した卒業生からは、現地で報道されたエイズに関する新聞記事が送られてくることもあった。エイズは、教室の中だけで完結する知識ではなく、世界の社会問題として生徒たちの前に現れていた。
 当時、エイズは大きな社会問題となっていた。国内で配布される啓発資料を読むだけではなく、外国では若者に対してエイズや性感染症についてどのような言葉で伝えているのかを、自分たちの手で読み解くことには意味があると思った。文化祭で社会問題を調べ、意見を持ち、一冊の本にまとめた経験があったからこそ、今度は三クラス全員で、一冊の英語の本を分担して翻訳してみようと考えたのである。
 私は英語の教師ではなく、エイズの研究者でもなかった。生徒より少し多く、エイズや性教育に関する本を読んでいたにすぎない。したがって、教師が内容をすべて理解したうえで、生徒に訳し方を教える授業ではなかった。私自身も、生徒と一緒に作業をしながら知識を得ようと考えていた。
 本文を、一人当たり一、二ページになるように、内容の切れ目を見ながら分けた。生徒にはルーズリーフを二枚ずつ配り、一枚に英文のコピーを貼り、もう一枚に訳文を書くようにした。二時間分の授業を翻訳作業にあてたが、自分の担当部分だけを見ていては、前後の意味がつながらない。そこで、隣り合う箇所を担当した生徒同士が訳文を見せ合い、相談しながら調整するようにした。専門用語や性に関わる俗語がわからない場合は、授業中に自由に質問できるようにし、辞書などで調べた過程もそのまま残させた。
 提出された訳文を一冊に綴じて通読し、用語を統一したうえで、ワープロに入力した。英語科の教員にも相談して校正を行った。父親と一緒に訳した生徒もいれば、自分から英語科の教員を訪ねて質問した生徒もいた。「エイズについての洋書を読めば、英語力と知識の両方が得られる」と考え、大学受験を目前にした三年生が、予想以上に楽しそうに取り組んでいた。
 製本も、業者にすべて任せたわけではない。印刷した紙を折り、順番をそろえ、綴じるところだけを製本所に依頼した。私たちの折り方が不十分だったため、製本所の方は、「会社の名前が入る以上、雑な仕事はできない」と、夜中まで一緒に作業をしてくださった。完成した翻訳本は、卒業式の日に生徒一人ひとりの手に渡った。
 後になって、私たちが翻訳に使った本と同じ原著をもとにした邦訳が、集英社から『マジック・ジョンソンのエイズにかからない方法』という書名で出版されていることを知った。私たちが使ったのは、ニュージーランドで購入したオーストラリア版であり、内容には若干の違いがあった。
 すでに専門家による邦訳が出ていたのなら、生徒と何か月もかけて翻訳し、校正し、印刷し、製本して一冊の本にしたことは無駄だったのではないか、という見方もあるかもしれない。しかし、私にはそうは思えなかった。生徒と生物教師が辞書を引き、前後の文章を確かめ、互いに相談しながらつくった直訳は、専門家の訳に比べれば読みにくいところもあった。それでも、私たち自身が考えながら言葉を選び、一冊の本をつくったことに意味があった。
 たとえば、集英社版では、"bisexual"が「両刀づかい」と訳されていた。「両刀づかい」は、両性愛者をからかったり、低く見たりする響きを持つ言葉である。少なくとも、私たちの翻訳ではそのような語を選ばなかった。また、当時のエイズ発生状況の報告では、感染経路を示す欄に「異性間性的接触」と「男性同性愛」が並べられていた。前者は行為を表す言葉であるのに対し、後者は人の性的指向やアイデンティティに関わる言葉である。性行動を示す分類の中に、特定の人間のあり方を置くこと自体に、偏見を生み出す危険があった。
 言葉の中には、その時代の人間観や差別意識が入り込む。反対に、言葉を丁寧に選ぶことによって、相手の尊厳を守り、大切にしたい気持ちを伝えることもできる。翻訳作業は、英語やエイズの知識を得るだけでなく、私自身が言葉と人権の関係を学ぶ時間でもあった。
 翻訳した本には、同性愛を罪だと教えられて育った人に対しても、同じ宗教の教えが、すべての人間は罪を負う存在であり、自分が他者から受けたいと願う愛を、自らも他者に向けるよう求めていることを思い出してほしい、という趣旨の文章があった。生徒たちは、その文章も自分たちの言葉で訳した。
 一人の生徒が訳したのは、わずか一、二ページである。しかし、約百人の仕事をつなぐと、一冊の本になった。誰か一人の能力だけで完成したのではない。翻訳する生徒、前後の文章を調整する生徒、英語を確認する教員、家庭で一緒に考えた保護者、印刷と製本を支えた人たちの作業がつながって、初めて形になったのである。この経験は、後に私が科学研究の指導で大切にすることになる、一人ひとりの小さな作業をつなぎ、共同の成果へ変えていく方法の原型でもあった。

9 授業「生命」の制度化――発展科目としての成立
 一九九五年、清心女子高等学校では、「西暦二〇〇〇年に清心学園は何を提供できるか」を課題とする学校改革のプロジェクトチームが組織された。私はチームリーダーとして、学校の現状に対する意見や希望を調べるアンケートの実施とその集約に関わった。
 調査の対象は、教員だけではなかった。生徒は中学一年生・三年生、高校一年生・三年生、保護者は中学三年生・高校三年生の家庭を対象とした。学校を運営する側だけでなく、生徒や保護者が清心の教育をどのように受け止め、何を求め、何に不安を感じているのかを調べようとしたのである。
 当時、学校改革について、生徒や保護者にまで意見を聞くことは、学校文化の中で当たり前のことではなかった。宗教教育、進学指導、教育課程、生徒指導、教育環境について、入学時に何を期待し、学校生活を通して何を感じ、どのような思いで卒業しようとしているのかを、学校として改めて確かめる必要があると私は考えていた。
 調査結果は、一九九九年の学校の研究紀要に「清心中学校・清心女子高等学校の展望」として掲載した。その際、一部の教員から、「このような学校の内部資料を公開してよいのか」と叱責を受けた。しかし、学校改革を進めるのであれば、学校にとって都合のよい結果だけでなく、生徒、保護者、教員が実際に感じていることを共有し、外部からも意見をいただいて、そこから教育課程を考える必要があると私は考えていた。
 この調査をまとめる過程で、それまで学級通信、LHR、性教育として続けてきた実践を、担任個人の取り組みのままにしておくのではなく、学校の教育課程の中に置く必要があると考えるようになった。生徒が自分の身体や人間関係、社会、将来の生き方について考える時間を、通常の教科とは別に設ける必要があった。
 その受け皿となったのが、「発展科目」である。発展科目は、高校の通常の学習範囲を超える専門的な内容にふれることができる科目であると同時に、既存の教科の枠だけでは扱いきれない問題を横断的に考えるための科目でもあった。生物、保健、家庭科、公民、倫理、芸術などは、それぞれ生命に関わる内容を扱っている。しかし、生徒が「生命」を自分の身体、生き方、社会、環境、文化の問題として考えようとすると、一つの教科の中だけでは十分ではない。教科の枠を越えてこそ見えてくる問いがあった。
 授業「生命」は、その一つとして一九九九年度に開講した。学級通信や性教育で行ってきたことが、ここで初めて、毎年継続して実施できる授業として教育課程の中に置かれたのである。私はこの授業を、生物教師が生命現象を説明するだけの授業にはしたくなかった。生命を、医学、心理、福祉、動物、環境、文化、芸術の側からも考える場にしたかった。
 そのために、外部講師として、大学の研究者だけでなく、医師、獣医師、心理カウンセラー、薬剤師、博物館学芸員、フリーライター、環境保全に関わる市職員、芸術家など、多様な分野の方々に来ていただいた。それぞれの講師は、生命を一つの答えにまとめるためではなく、生徒が生命をさまざまな角度から考えるための材料を提供してくださった。授業「生命」が目指したのは、知識を広げることだけではなかった。生命という問いを、一つの教科、一つの専門、一つの価値観に閉じ込めず、生徒自身が複数の視点から考えられるようにすることであった。
 授業「生命」を開講した後も、少年事件や、加害者が被害者の苦痛を理解できていないと指摘される出来事に接するたびに、私は、学校が知識や成績だけでなく、生命や人間の生き方を扱う必要性を感じた。二〇〇五年にこの授業の実践を報告した文章では、児童・生徒が一日の多くを学校で過ごし、学校を中心とする人間関係の中で成長している以上、子どもをめぐる社会的な問題について、学校教育にも考えるべき責任があると書いている。
 授業「生命」の目的は、生徒に特定の生き方を教えることではなかった。性、身体、家族、医療、死、差別、環境などの問題について、正確な知識を示すとともに、医学、心理、福祉、倫理、芸術、環境など、さまざまな立場からの見方に触れさせ、生徒自身が「自分はどう考えるのか」「自分はどのように生きるのか」を考えるための授業であった。
 学級通信「ぼうぼうどり」では、新聞記事や書籍を、生徒が考えるための材料として渡していた。授業「生命」では、それに講義、討議、現地調査、レポート作成、発表を加えた。資料を読むだけでなく、生徒自身が事実を調べ、異なる意見を聞き、最初に持っていた考えを見直したうえで、自分の判断を言葉にするところまで進めようとしたのである。
 そのために、授業では四つの方法を組み合わせた。第一は、担当教員や校外講師による講義である。第二は、グループ討議や心理テストなどを用いて、自分の考え方を確かめる活動である。第三は、与えられた課題について、自分で現地へ行き、資料を集め、人から話を聞く調査活動である。第四は、調査した結果をまとめ、発表するための課題レポートの作成である。当時は、レポートをHTML形式で作成し、各回の授業の感想は電子メールで提出させていた。
 この授業の中核に置いたのは、調査活動であった。正解があらかじめ用意されていない課題に、教師と生徒が一緒に調査や作業をしながら取り組み、ともに考える過程を大切にした。私自身も、すべての答えを持っていたわけではない。生徒が何を見つけ、どのように考えるのかを知りたいという気持ちで、同じ課題に向き合っていた。
 従来の知識伝達を中心とする授業では、「教科書に載っていないことは勉強しなくてもよい」「試験に出ないことはやらなくてもよい」という受け止め方が生まれやすい。ボランティア活動まで、評価されるかどうかで参加を決める生徒もいた。だから私は、点数や評価のためではなく、生徒自身が調べてみたいと思える問題を、通常の教科とは異なる方法で扱う必要があると考えた。
 前期の課題は、「野外彫刻は猥褻か芸術か」であった。ただし、この問いは、単に野外彫刻を「芸術」と見るか「猥褻」と見るかを選ばせるものではなかった。街中や公園に置かれた裸婦像などの野外彫刻は、公共空間の中で芸術として機能し、行き交う人々の心に何らかの潤いを与えているのか。それとも、女性の裸像を公共の場に置くことによって、女性の身体を一方的に見られる対象としてさらし、女性を抑圧するような効果を生んでいるのか。その両方の可能性を、生徒自身が実際の作品を見て、調べ、考える課題であった。
 私は、女子高校生がこの問題にどのような意見を持つのかを知りたかった。教師が先に結論を示すのではなく、生徒が公共空間に置かれた表現を自分の目で見て、それが芸術として受け止められるのか、あるいは女性の身体の扱われ方に違和感を覚えるのかを、自分の言葉で考えることに意味があると思ったのである。
 三十人の受講者を五人ずつの班に分け、班ごとに調査地域を決めた。生徒は九十分で学校との間を往復できる計画を立てて現地へ行き、一人一つの野外彫刻を見つけ、デジタルカメラで撮影した。作者名や作品名を示す掲示、設置されている場所と周囲の環境、自分が作品を見たときの感想を調査表に記録した。さらに、自宅周辺や通学途中でも別の野外彫刻を探し、同じ方法で調べた。
 調査した内容は、HTML形式のレポートにまとめた。しかし、現地を見た自分の印象だけで結論を出させたわけではない。野外彫刻を制作する彫刻家と、野外彫刻を女性問題の立場から考えてきた女性グループの双方から話を聞いた。そのうえで、最初に抱いた印象と、調査や異なる立場の意見を聞いた後の考えを比べ、最後に自分の意見を書き加えた。
 この課題で私が求めたのは、野外彫刻を芸術か猥褻かのどちらかに分類することではなかった。自分の目で作品を見て、置かれている場所を確かめ、作者の考えと、それを問題だと感じる側の意見の両方を聞き、そのうえで判断することであった。教師が結論を教えるのではなく、判断に必要な事実と異なる立場に、生徒自身が出会う授業にしたかった。
 後期の課題は、「学校飼育動物は、小学校で児童が生命尊重を考える教材になっているか」にした。生徒は出身小学校を訪ね、飼育されている動物の種類、飼育環境、世話の担当、休日や長期休暇中の管理、死亡した動物の扱いなどを調べた。この課題は、学校が掲げる「生命尊重」という理念が、実際の飼育の中でどのように成立しているのかを、生徒自身が事実によって確かめるものであった。詳しい調査の展開は、後の「学校飼育動物――全員の作業が研究になる」で述べる。
 授業「生命」を続ける中で、私は、女子生徒が自分の身体や生き方について考えることと、進路や学問の選択を自分の問題として考えることは、切り離せないと感じるようになった。二〇〇五年の『季刊セクシュアリティ』に掲載された「学校教育とジェンダー」では、学校教育の中で形式的には男女平等が進んだように見えても、高校の学科選択、大学の専攻分野、卒業後の就職分野には、依然として大きな男女の偏りが残っていることが示されていた。看護や家庭の分野には女子が多く、工業系には男子が多い。大学でも、理学や工学には男子が多く、人文科学や家政には女子が多い。その偏りは、生徒本人の自由な選択だけで説明できるものではなく、学校や社会の中に残る性別役割意識と深く関わっていた。
 この資料で示されていた「隠れたカリキュラム」という視点は、私にとって重要であった。学校は、表向きには男女に同じ機会を与えているように見える。しかし、日々の言葉、教科や進路への期待、教師の役割分担、学校行事の中で、女子はこうあるべきだ、男子はこうあるべきだという無言のメッセージが伝わっていく。女子生徒が理学や工学、研究の世界を自分の進路として考えにくいとすれば、それは本人の興味や能力の問題だけではない。学校が、女子生徒に科学を自分のものとして考える経験を十分に用意してこなかったことも問われなければならない。
 授業「生命」は、生徒が自分の身体や人間関係、生き方について考える授業であった。しかし、その先には、女子生徒が自分の学びと進路を、性別役割に閉じ込められずに考えるための教育が必要であった。二〇〇六年に生命科学コースを開設した背景には、女子生徒が生命科学を学び、研究に取り組み、科学の世界を自分の進路として考えることができる場を、学校の中につくりたいという思いがあった。
 授業「生命」は、調査や発表の方法を身につけさせるためだけの授業ではなかった。性、身体、家族、医療、死、差別、環境を扱う中で、生徒が人間の存在そのものをどう受け止めるのかを考える授業でもあった。生命科学コースへ向かう前に、私は、生徒たちに、生命を知識として学ぶだけでなく、生きている人間の苦しみや孤独をどう受け止めるのかを考えてほしいと思っていた。

10 存在を受け止める教育――水谷修の講義から
 授業「生命」が扱ったのは、調査できる課題だけではなかった。性や身体、家族、医療、死を考えていくと、最後には、人間はどのような支えによって、自分の人生をもう一度生きようとすることができるのかという問いに行き着く。知識を与えられるだけでは、人は生きられない。誰かに見捨てられていないと感じること、自分の存在が受け止められていると感じることが、人間が生きていくためには必要なのではないか。水谷修氏の講演を授業「生命」で扱ったのは、そのことを生徒と考えたかったからである。
 二〇〇四年九月、NHK教育テレビのETV特集で、『夜回り先生 水谷修のメッセージ・いいもんだよ、生きるって』が放送された。私はこの番組を、迷わず授業「生命」で取り上げることにした。水谷修氏は、長年にわたって横浜の繁華街を夜回りし、学校や家庭に居場所を持てず、夜の街に出てきた子どもたちに声をかけてきた。薬物や犯罪に巻き込まれた子ども、家庭で傷つき、学校にも戻れなくなった子どもの話を聴き、危険な状況から離れるための支援を続けていた。
 私がこの番組を授業で扱いたいと思ったのは、夜の街の問題を説明するためではなかった。清心女子高等学校の生徒たちは、水谷氏が出会ってきた子どもたちとは、生活環境も学校環境も大きく異なっていた。その違いを前提にしたうえで、生徒たちが、自分とは異なる境遇に置かれた若者の苦しみを、どのように受け止めるのかを見たかったのである。
 自分とは関係のない遠い世界の出来事として見るのか。それとも、同じ時代を生きる若者が、孤立や傷つきの中で生きようとしている姿として受け止めるのか。知識を与えられるだけでは、人は生きられない。誰かに見捨てられていないと感じること、自分の存在が受け止められていると感じることが、人間が生きていくためには必要なのではないか。水谷修氏の講演を授業「生命」で扱ったのは、そのことを生徒と考えたかったからである。
 水谷氏は私と同じ一九五六年に生まれ、高度経済成長の中で、努力すること、社会に適応すること、役に立つことを強く求められた時代を生きてきた。しかし、豊かさが増し、社会の仕組みが効率化される一方で、学校や家庭の期待に応えられず、居場所を失う子どもたちもいた。水谷氏が夜の街で向き合っていたのは、そうした子どもたちであった。
 私もまた、学校教育の中で生徒と付き合いながら生きてきた教師であった。ある人からは、「秋山先生には有尾類の研究と学校教育しかないから」と言われたこともある。実際、大人としての遊びや旅行や贅沢な食事を多く経験してきた人生ではなかった。授業の準備をし、教材研究をし、生物を世話し、生徒会や部活動で生徒と向き合い、有尾類の研究と学校教育の中で日々の時間を費やしてきた。
 しかし、そのような生き方が、私一人の努力だけで成り立っていたわけではないことも、書いておかなければならない。家族を置いて一年間単身赴任し、大学院でイモリの研究に取り組むことができたこと。清心女子高等学校を離れ、単身赴任で南九州大学に勤め、理科教員養成の仕事に打ち込めたこと。そして今、東京で単身赴任をしながら、有尾類研究所で有尾類の研究とSSH事業による科学教育の推進に関わることができていること。そのいずれも、家族の理解がなければ成り立たなかった。
 ある女性の先生から、「先生は、家庭の理解があって、学校での研究や仕事に専念できていいですね」と言われたことがある。その言葉には、教員として働きながら、家庭の中で担わなければならない役割も抱えている女性の立場から見た、率直な思いが含まれていたのだと思う。私が研究や教育に時間を注ぐことができた背景には、家族の生活を支える人たちの理解と負担があった。そのことを抜きにして、自分が有尾類の研究と学校教育に没頭してきたことを、単純な努力の物語として語ることはできない。
 そのことを考えたうえでなお、私にとって水谷氏の生き方は、まったく別の世界の教師の話ではなかった。水谷氏の生き方をそのまま自分に重ねることはできない。しかし、同じ時代を生き、生徒と関わり続けてきた一人の教師の姿として、深く学ばせていただくものがあった。
 水谷氏が子どもたちに伝えようとしていたのは、非行をやめなさい、学校へ戻りなさいという指示だけではなかった。まず、あなたは生きていてよい、あなたの人生には意味があると伝え、その子どもの話を聴くことから始めていた。人間は、能力があるから、学校に適応できるから、社会の役に立つから受け止められるのではない。傷つき、失敗し、社会の求める生き方から外れたときにも、一人の人間として受け止められなければならない。
 授業「生命」で水谷氏の講演を扱ったのは、生徒に「恵まれない人もいる」と教えるためではなかった。「努力せよ」「頑張れ」「しっかりしろ」という言葉は、それを受け取れる状態にある人には励ましになる。しかし、自分は誰からも必要とされていないと感じている人には、その言葉が届かないことがある。まず、「自分はここにいてよい」と感じられる関係がなければ、人間は自分の人生をもう一度引き受け、これからどのように生きるかを考えることも難しい。そのことを、生徒たちと一緒に考えたかったのである。
 二〇〇四年は、授業「生命」が学校の中で定着し、やがて生命科学コースの構想へつながっていく時期でもあった。生命科学コースは、科学を学ぶ生徒を育てる場として始まっていく。しかし、その根にあったのは、科学の知識だけではなかった。人間がどのように生きるのか、他者の苦しみをどのように受け止めるのか、自分とは異なる境遇に置かれた人の存在をどう想像するのかという問いであった。
 水谷修氏のメッセージは、授業「生命」が生命科学コースへ向かっていく時期に、生命を学ぶとは何を学ぶことなのかを、もう一度考えさせてくれるものだった。生命を学ぶとは、知識を増やすことだけではない。目の前にいる存在をどう受け止めるのかを考えることである。その問いは、人間の生命にとどまらなかった。学校の中で飼われている動物の生命を、学校は本当に大切に扱っているのか。そのこともまた、授業「生命」で確かめるべき課題になっていった。

11 学校飼育動物――全員の作業が研究になる
 当時の小学校学習指導要領では、生活科の中で、低学年の児童が動物を飼ったり植物を育てたりする活動が位置づけられていた。そこでは、動植物に継続的に関わることを通して、それらが生命をもっていることや成長していることに気づき、生き物への親しみをもち、大切にすることが求められていた。しかし、そのためには、動物の世話をだれが担い、病気や繁殖や死にどう向き合うのかという、日常の飼育の仕組みが必要であった。
 しかし、学校での動物飼育は、その進め方によって、生命尊重の学びにもなれば、担当する児童だけの作業にもなってしまう。世話をする児童だけが動物の様子を見て、他の子どもたちは近づかないようにされているなら、その動物は学校の中にいながら、多くの子どもたちから遠い存在になってしまう。
 家庭で飼われているペットに子どもが強い愛着を持つのは、その動物と日常的に深く関わっているからである。名前を呼び、しぐさを見て、体調の変化に気づき、病気や死にも家族の出来事として向き合う。そうした時間の積み重ねが、動物を「そこにいる生き物」ではなく、自分に関係のある生命として受け止めさせていく。
 学校飼育動物にも、そのような関わりをつくることができれば、子どもたちは動物を身近な生命として感じることができる。しかし、関わる時間が限られ、世話が一部の児童の作業にとどまれば、愛着は育ちにくい。子どもたちは、その飼育を通して本当に生命を尊重するようになるのだろうか。
 動物の世話をするということは、作業を分担することだけではない。毎日様子を見て、変化に気づき、その動物の状態を気にかけることである。そのような時間があって初めて、子どもは学校で飼われている動物を、自分に関係のある生命として受け止めていくのではないか。
 一九九九年度、学校設定科目「国際情報」の課題として、生徒が自分の出身小学校を訪ね、飼育されている動物の種類、個体数、飼育環境などを調べた。これが、学校飼育動物をめぐる調査の出発点であった。その後、「情報A」や総合的な学習の時間の授業「生命」で訪問調査を継続し、二〇〇七年度には一二五件、二〇〇八年度には一〇一件の報告が集まった。
 生徒のレポートには、必ず現場の写真を貼らせた。飼育舎の様子、動物のいる場所、餌や水の状態、掲示物などは、文章だけでは見えにくいからである。ある生徒のレポートに貼られていた写真には、担当する児童以外は近づかないようにという趣旨の掲示が写っていた。それを見たとき、私は、これでは生命尊重の教育にはならないのではないかと思った。
 小学校で飼育されているウサギ、ニワトリ、魚などは、子どもたちが身近な生き物に触れ、生命の尊さを学ぶための教材とされてきた。しかし、動物を学校で飼っていれば、それだけで生命尊重の教育になるわけではない。誰が毎日の世話をしているのか。休日や長期休暇中の管理はどうなっているのか。病気になったとき、誰に相談するのか。死亡した動物はどのように扱われているのか。学校が掲げる「生命尊重」という目的と、実際の飼育との間に隔たりはないのかを、事実によって確かめる必要があった。
 生徒が自分の出身小学校を訪問する調査では、個々の学校の様子は見えても、岡山県全体の状況までは把握できない。そこで二〇〇八年二月から三月にかけて、岡山県内の小学校四百三十五校を対象に、学校で飼育している動物についてのアンケート調査を実施した。三百六十校から回答があり、回収率は八三%に達した。
 アンケートの作成、調査用紙の準備、封筒入れ、宛名の確認、発送、戻ってきた回答の整理、データ入力は、授業「生命」の受講者全員で分担した。さらに、生命科学課題研究を選択した生徒が、入力されたデータをもとに集計や考察を進めた。
 戻ってきた回答を整理する過程で、生徒たちは、調査には判断が伴うことを学んでいった。手書きの自由記述を読み取り、どの項目に分類するのかを考え、入力された数値を別の生徒が確認した。回答を集めるだけでは、学校飼育の実態は見えてこない。何を数え、どのように分類すれば実態を正確に表せるのかを考えることも、調査の大切な過程であった。
 調査を進めると、学校飼育動物の問題は、子どもが動物を身近な生命として受け止めにくいということにとどまらなかった。学校で動物を飼育するには、その動物の体、行動、繁殖、病気についての基本的な知識が必要である。また、毎日の世話を誰が担うのか、休日や長期休暇中にどう対応するのか、病気になったときに誰に相談するのか、死んだときにどう扱うのかという仕組みも必要である。生命尊重の教育として動物飼育を続けるには、子どもの善意や担当教員の努力だけに頼ることはできない。
 そのことをよく示していたのが、最も多く飼育されていたウサギであった。ウサギについても、雌雄を区別できないまま飼育されている学校が少なくなかった。雌雄が混在し、避妊や去勢もされないまま頭数が増えれば、飼育はすぐに困難になる。かわいいから飼う、子どもが世話をするからよい、という発想だけでは、動物の生命を引き受けることにはならない。学校で動物を飼育するのであれば、世話を続ける仕組みとともに、その動物の生態や繁殖についての知識が必要である。
 鳥インフルエンザを理由に鳥類の飼育をやめた学校もあった。感染症への注意は当然必要である。しかし、正確な知識や相談先を持たないまま、社会的な不安だけで飼育をやめてしまうなら、子どもたちは動物と関わる機会を失っていく。動物の病気や飼育上の問題について、獣医師などに相談できる仕組みを持つことも、学校飼育動物を教育として続けるためには欠かせない。
 動物の死の扱いも、重要な教育課題であった。人間と同じように、動物も必ず死を迎える。大切に飼育した動物が死んだとき、その死を子どもにどう伝えるのか。死んだ動物をゴミとして処分しているという回答に接したとき、調査した高校生の多くは強い衝撃を受けた。生命の尊さを教えると言いながら、死んだ動物の扱いが子どもから見えないところで処理されているなら、そこには大きな矛盾がある。
 さらに、休日や長期休暇中の世話は、担当教師に大きな負担としてのしかかっていた。学校飼育動物を生命尊重の教材として続けるためには、担当教師だけに責任を押しつけるのではなく、保護者や地域、獣医師とつながりながら、無理のない飼育の仕組みをつくる必要がある。動物を学校に置くことではなく、動物と関わり続ける時間と仕組みをつくることが、生命尊重の教育には必要だったのである。
 生命科学コースでは、高校一年生が放課後にサンショウウオの飼育を当番で行っていた。そこで、両生類の飼育を経験した生命科学コースの生徒と、飼育経験のない文理コースの生徒を比較し、両生類に対する意識を調べた。
 その結果、飼育経験のある生徒とない生徒では、両生類への感じ方に明らかな違いが見られた。「両生類を気持ち悪いと感じるか」という問いに対して、飼育経験のある生徒の多くは、気持ち悪いとは感じていなかった。また、「両生類をかわいいと思ったことがあるか」「両生類に触れることができるか」という問いでも、飼育経験のある生徒の方が肯定的に答える割合が高かった。実際に世話をし、触れ、様子を見続けることによって、苦手意識が薄れ、かわいいと感じるようになる生徒がいたのである。
 この結果は、私にとって重要であった。生命尊重の教育は、「生命を大切にしましょう」と言葉で教えるだけでは成立しない。子どもが生命と関わる時間を持ち、世話をし、変化に気づき、その存在を身近なものとして感じる経験が必要である。担当者以外は近づかないようにする飼育では、動物は子どもにとって遠い存在のままである。反対に、両生類のように、最初は苦手だと思われやすい生き物であっても、関わり続けることによって感じ方は変わる。
 この活動を通して、生徒たちは、研究が発表する一人の生徒だけによって成り立つものではないことを経験した。調査項目を考える人、用紙を準備する人、封筒に入れる人、宛名を確認する人、回答を整理する人、データを入力する人、入力された内容を確かめる人、集計し、グラフを作り、結果を考察する人が必要であった。それぞれが担当した作業を正確に行い、次の人へ渡さなければ、三百六十校の回答を一つの研究資料にすることはできない。
 年に一度、学校飼育動物についての講義をお願いしていた獣医師が、生徒に「自分のペットの死と、学校飼育動物の死とでは、どちらが悲しいですか」と尋ねたことがある。生徒たちは、必ず自分のペットの方が悲しいという返答が返ってきた。自分で世話をし、長い時間を一緒に過ごした動物には愛着が生まれるからである。あまり関わることのない動物が学校に置かれているだけでは、生命を大切にする気持ちを育てるのに役に立たない。毎日関わり、その生命を支える責任を引き受ける経験があって、初めてその動物が自分にとって大切な存在になる。この問いは、学校で動物を飼育することを、どのように生命尊重の教育として成り立たせるのかという問題を、生徒にも教師にも突きつけていた。
 最終的なアンケートの解析結果は研究報告書としてまとめ、その研究成果を全国学校飼育動物研究会で、生命科学コースを代表して生徒が発表した。授業「生命」の受講者が分担して準備し、回収し、入力した三百六十校の回答は、岡山県内の学校飼育動物の実態を分析するための基礎データとなった。一人ひとりの担当は小さく見えても、それを正確につなぐことで、「生命尊重」という教育理念と、実際に動物の生命を支える体制との隔たりを確かめる研究になったのである。
 学校飼育動物の調査で見えてきたのは、動物を飼育しているという事実だけで、生命尊重の教育が成り立つわけではないということであった。生命への愛着は、距離を置いて眺めることによってではなく、日々の関わりの中で育つ。名前を呼び、様子を見て、変化に気づき、その動物の状態を気にかける時間があって初めて、子どもは学校で飼われている動物を、自分に関係のある生命として受け止めていく。
 この考えは、後に生命科学コースで有尾類を飼育し、生徒がサンショウウオやイモリを、研究対象としてだけでなく、生きている存在として受け止めていく教育へつながっていった。

12 女子の理系進学支援へ
 二〇〇〇年代半ば、女子生徒の進路を考えるうえで、二つの状況が重なっていた。一つは、学校教育の中で男女平等が進んだように見えても、進路選択にはなお大きな男女の偏りが残っていたことである。二〇〇五年の『季刊セクシュアリティ』に掲載された「学校教育とジェンダー」では、高校の学科選択、大学の専攻分野、卒業後の職業選択に、依然として性別による偏りがあることが示されていた。看護や家庭の分野には女子が多く、工業系には男子が多い。大学でも、理学や工学には男子が多く、人文科学や家政には女子が多い。その偏りは、生徒本人の自由な選択だけで説明できるものではなく、学校や社会の中に残る性別役割意識と深く関わっていた。
 もう一つは、薬学部をはじめとする生命科学系分野への関心が高まっていたことである。二〇〇三年には、岡山市の就実大学と九州保健福祉大学に薬学部が開設され、その後も全国で薬学部の新設や増設が相次いだ。薬学教育の六年制への移行も控え、薬剤師という職業や薬学部への注目は高まっていた。清心女子高等学校でも、薬学部をはじめ、医学、看護、農学、生物学など、生命科学に関わる分野を志望する女子生徒が増えていた。
 私は、この動きを一時的な進学傾向として見るのではなく、女子生徒が科学へ進む入口として生かしたいと考えた。授業「生命」で扱っていた性、生殖、身体、妊娠、出産、家族、生命倫理といった問題は、女性として自分の人生をどのように生きるかを考える問いであると同時に、医学、薬学、農学、生物学などの生命科学分野への関心を生み出す内容でもあった。性教育と生命科学教育は、私の中で別々の領域として存在していたのではない。自分の身体と生命について考えることが、その仕組みを科学的に知りたいという関心につながり、さらに生命科学を自分の進路として選ぶことへつながっていた。
 清心女子高等学校がSSHに採択され、生命科学コースが開設されたのは二〇〇六年である。しかし、SSHの申請やヒアリングでは、女子の理系進学支援が必要なのは、女子の割合がとくに低い数学、物理、工学などの分野であり、生物や生命科学から始める必要があるのかという疑問も出された。生命科学分野には、すでに比較的多くの女子生徒が進学していたからである。
 それに対して私は、まず女子生徒が関心を持ちやすく、自分の身体や生活とも結びつけて考えることのできる生命科学分野を、理系進学への入口として位置づけることが必要だと考えた。そこで、観察、実験、調査、発表を含む課題研究の方法と指導体制を整え、その経験をもとに、数学、物理、化学、工学などの分野へ順次広げていく構想を持っていた。
 それゆえ、生命科学コースは、女子生徒を生物分野だけに集めるためのコースではなかった。女子生徒が科学研究に参加し、自分で問いを立て、観察し、実験し、結果を発表する経験を得るための最初の入口として構想したのである。授業「生命」で、生徒は自分の身体や生き方を他者任せにせず、自分の問題として考えた。生命科学コースでは、その問いを、観察、実験、調査、データによって確かめるところまで進めることになる。
 女性が自分の身体と人生について知り、自ら選択できるようになることと、女性が科学を学び、研究を自分の進路として選べるようになることは、私の中では一続きの問題であった。次章では、その問いを学校の教育課程と研究指導の制度へ反映させていった過程を述べる。

  • 投稿者 akiyama : 16:00
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